黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

團菊祭五月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

團菊祭夜の部。大看板の二人は孫の初舞台につきあうのみで、ほぼ若手中心の公演である。なかでも、昼の部で海老蔵が『勧進帳』を出したのにたいし、夜は菊之助が『娘道成寺』で新境地を見せる。

 

令和のはじまりを祝って松緑と時蔵が舞う『鶴寿千歳』につづいて、尾上丑之助初舞台となる『絵本牛若丸』。すみからすみまで文字通り一座総出の豪華版。丑之助本人も堂々としたお披露目だが、なによりも孫の姿を目を細めて見守る菊五郎と吉右衛門のふたりの「おじいちゃん」の姿が微笑ましい。意外にも菊之助の弁慶(『弁慶上使』のような拵え)が堂々としていて、かつ普段はなかなか出てこない人間的な部分を「芸」として見せることに成功している。

 

『娘道成寺』は菊之助のシテで。すでになんども演ているが、今月の『道成寺』は見応え充分。もともと作品そのものがきわめてよくできた歌舞伎舞踊ではあるが、今回ほど『京鹿子道娘成寺』という作品があっという間だと感じられたことはなかった。それだけひとときも目が離せないほどに面白さに満ちていたということである。

作品のとらえかたはさまざまなので、いろいろな解釈が成立する作品。玉三郎の『娘道成寺』などは、まず後シテの大蛇が「本性」としてあり、その化身である花子が格段さまざまな娘の姿を見せるように感じさせる。あくまでまず本性がありきなので、目に見えているのはその本性が纏ったさまざまな仮の姿であり、それらが一貫した玉三郎的な妖しい世界観をつくりあげている。しかし菊之助の『娘道成寺』は、まったく内面をともなわない花子という身体に、いくにんもの違った人格の女たちがそのつど宿り、その身体を「借りて」それぞれの女の姿をわたしたちに見せているように見える。格段にそれぞれにあらわれる女たちのリアルさ。それは菊之助がリアルになにかを「表現している」ということではない。尾上菊之助という役者がていねいに踊る身体のなかに、自ずと「見出される」のである。それぞれの女のものがたりが繰り広げられるなか、彼女たちのさまざまな「鐘への想い」が重なり合って、そこに安珍清姫のものがたりも後シテとしての「大蛇」もそこに事後的に「見出される」という、観客の目の前でうまれるダイナミックなドラマが面白いのである。所化たちが「白拍子だ」「いや生娘だ」と云い争うのも無理はない。この花子の身体は、誰でもない、さまざまな女の「入れ物」なのだ。

そう思わせるのは、格段を踊りわけて見せる菊之助のうまさにほかならない。道行から見惚れるほどの美しさ、自在に動く身体の面白さ。乱拍子は能面のような菊之助の顔が生きて場がしまる。「恋の手習」は、ていねいに踊るなかに見えぬ相手がそこに見えるかのような「濃密さ」があって引き込まれた。山づくしの鞨鼓の踊りはやや重たくのっぺりと感じられたが、鈴太鼓から鐘入りはぐっとひきしまる。梯子をあがる身体の妖しい揺れ具合。祈の頭をとる右手の覇気。尾上菊之助がまたあらたなステージへ歩みを進めたかと思わせる、充実した『娘道成寺』であった。

 

『御所五郎蔵』は数年前は菊五郎、魁春、左團次が演じた役を、今月は松也、梅枝、彦三郎がうけついで演じる。

序幕、松也の五郎蔵は調子(声)をやられているのか、いつもは早口になっても明晰なセリフが空回りしているのは残念。星影土右衛門を演じる彦三郎も歌舞伎界随一の大音声が鳴り響いてはいるが、総じてセリフが平坦に聞こえ、掛け合いの面白さはそこにはない。舞台には華やかな吉原の景色がひろがっているが、それにふさわしい風情は感じられなかった。『三人吉三』の「大川端」の場もそうだが、こういった場面ではいくら意地づくの喧嘩をしていても、オペラの二重唱のような様式のなかで酔える声の陶酔というものがあるべきだと思うのだが。

二幕目からはぐっともちなおして芝居として面白くなる。妻・皐月の拵えごとにも気づかず嫉妬に狂う素直な(ある意味短絡的な)五郎蔵を、松也が自然に演じてみせる。そこには菊五郎や仁左衛門とはまた違う現代の若者らしいリアリティがあって、これはこれで説得力がある。花道への引っ込みは勢いだけではなく、もっと腰が安定してよいかたちを見せられれば。彦三郎も序幕よりは落ち着いて見えるが、左右にむやみとキョロキョロ、弟子に頼られる先生というほどの余裕がない。土右衛門は本来ただの敵役ではなく、貫禄とどうじにそれなりの色気がある人物。それがどこまでにじみ出るか。この土右衛門にかぎらず、『忠臣蔵』の師直、『助六』の意休などといった、平成時代に市川左團次がなかばレギュラーのように演じた役々が、令和時代に彦三郎の持ち役になるのかどうか、そのあたりにかかっているようだ。その可能性は充分に感じられた。

梅枝の皐月、尾上右近の逢州という若手女形ふたりのていねいな芝居が充実していてこの場をまとめている。梅枝が幕切れに片足を落として向こうを見るその姿が、次の場の悲劇をさりげなく予感させる。土右衛門の手下(新十郎、左升、荒五郎、吉兵衛)がお手本のような見事なアンサンブル。捨て台詞にいたるまでよくとおっているのだから、もっと客席にうけてもよさそうなものだが。

 

 

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