黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

六月歌舞伎座夜の部は、三谷幸喜作・演出による新作歌舞伎。みなもと太郎のマンガ『風雲児たち』を原作に、大黒屋光太夫らのロシア行きをめぐるくだりを歌舞伎として上演するものである。

 

開幕五分前になると幕が開き、いちめんに海原がひろがる舞台があらわれる。時間になると拍子木が打たれるわけでもなく、客電が落とされるわけでもなく、突如としてスーツ姿の尾上松也があらわれ前口上となる。前口上といっても、とくに作品についてのガイダンスというわけでもない。あくまで現代的なスタイルで、客席をいじりながらくだけてトークをする。これがなかなかうまく、開幕前の時間と開幕後がそうであったように、舞台と客席とをシームレスにつなぐ、きわめて見事な導入になっている。さらりと自由にやっていながら、それが流れずきっぱりとしている松也のウデ。これからどんな三谷ワールドが繰りひろげられるのかと、思わず引き込まれる。

 

しかし、である。

 

このあと序幕、二幕目と、じつに耐えがたい時間が過ぎていくことになる。

まず、台本そのものに歌舞伎役者としてのウデの見せどころがない。かわって現代劇としてのテンポのよいセリフのつらなりが求められているが、それが成功している役者はほとんどおらず、届かない声と不明瞭な言葉がむなしく飛び交うばかりである。

まるで整理されているとは思えない台本、俳優祭の余芸(最近の俳優祭はもっと面白くつくられているから失礼か)を見せられているかのような勢いだけの芝居。空回りしたノリだけの舞台に、よほど席をたって帰ろうかと思われた。

 

ところが、である。

 

二度目の休憩をはさんで第三幕になると、台本、演出、役者ともに別の芝居がはじまったのかと思わせるほどがらりと良くなる。

まずは台本そのものにドラマがきわめて明確にえがかれていること。そしてセリフや芝居のしどころが、歌舞伎役者のウデを十二分に発揮できるものになっていること。こうなれば、幸四郎の大黒屋光太夫、猿之助の庄蔵、愛之助の新蔵、それぞれの役者のうまさが引き立ってくる。逆に言えば、彼らのうまさが生かせるように三谷幸喜の台本が組み立てられている。ひとつ例をあげれば、第三幕第三場の幕切れに猿之助が見せる絶叫は「もうひとつの『俊寛』」として、現代の歌舞伎の名場面のひとつに数えられると言っても過言ではない絶品であった。

この第三幕以降のクオリティにおおきく貢献しているのは、ここからようやく登場することになる三谷ワールドの常連、八嶋智人の演じるラックスマンである。その目の覚めるような芝居は(プロセニアムのこちら側に能動的にアクセスしてくるという意味において)だれよりも歌舞伎的とも言えるかもしれない。

白鸚のポチョムキンはさすがの貫禄。いまだ衰えを知らぬその深い響きのある声が紡ぎだす、老獪な政治家の存在感。そしてセリフにもあるとおり、たんなる敵役ではなく、ポチョムキンもまた祖国への愛をもった人物という説得力がある。白鸚は序幕にも三五郎として出ているが、ポチョムキンのみの出番であったほうが、より特別感があってよかったのではないか。

彌十郎の演じる九右衛門は、息を引き取る間際の芝居がさすがのベテラン。最後までとおして見て印象に残る男女蔵の小市。

 

前半は救いようのない失敗作かと思われたこの作品、第三幕からは見違えるような素晴らしい新作歌舞伎の姿をあらわした。大黒屋光太夫らの旅とおなじように、長い長いあいだ耐えしのんだそのさきに、スタンディングオベーションにふさわしい大団円があった。

ずいぶんと、回り道をさせられたような気もするのだが。

 

 

 

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