黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

キュイ『景観の邪魔』(アゴラ劇場)

 

綾門優季の書いた『景観の邪魔』の再演。橋本清の演出で、『景観の邪魔Aプログラム』と『景観の邪魔Bプログラム』のふたつのヴァージョンを併演するという趣向である。

この作品の台本は、会場であらかじめ観客に配布された。長短さまざまな二十四のシーン(セリフ)と、注意書きのようなプロローグが、それぞれひとつの枠におさめられている。それらのシーンには二十三区と武蔵野市の区市名をふくんだタイトルと、二〇一八年から二〇四一年までの西暦年が記されている。台本は時系列どおりに印刷されているのだが、それを「線に沿って切り離し《シーンの順番を並べ替えて》」上演することが求められている。

 

Aプログラムをはじめに観る。

舞台一面に置かれた二十三個のちいさな発光装置と、そのうえに乗せられたペットボトル。それが舞台セットのすべてである。前述の長短さまざまなシーンが並べ替えられ(しかしある程度は時系列からそう遠くはないあるながれをもって)、新田佑梨、長沼航、野村麻衣の三人の俳優によって演じられる。

彼らが演じるのは十四人の登場人物。とうぜんひとりが複数の人物を演じるのだが、途中からなんの役を演じているのかは、もはやどうでもよくなった。やがて彼らがひとつに重なっていくような錯覚が生まれ、最終的にきわめて凝縮した濃密な六十分であった。

 

一週間あけてBプログラムを観る。

こちらは舞台面にはなにひとつない空舞台。正面の壁面にスクリーンが垂れ下がっている。演じる俳優の数は六人。ただし、六人がおなじ舞台に立つことは決してなく、またある俳優たちは上演の三分の二以降にわずかに出演するのみといったように、かなり偏った香盤になっている。

Aプログラムに感じた凝縮とは真反対に、Bプログラムからは拡散という印象をうける。こちらはオリジナルの台本につけくわえられたいくつかのシーンをもつ。場所も東京にかぎらず大阪や東北などへ範囲をひろげ、時間的にも二〇一六年から二〇四四年とやや拡大されている。(誰も関西弁を話さない不思議な二〇四四年の大阪のシーンからはじまる)そのこともあって、そこで語られる内容が東京にとどまることなく、より普遍的な叫びとしてひびくように思われる。ある場所へのこだわりということは、東日本大震災(というよりも福島原発事故)以来わたしたちにはきわめて切実な問題になったが、そのリアルさがこちらのBプログラムからは感じられた。

 

『景観の邪魔』というタイトルにある「景観」という言葉は、もちろん見られるその都市の風景のことではあるが、どうじに見るその視線の存在を浮かびあがらせる。その視線とは、言うまでもなくその都市に住むひとびとのものだ。Aプログラムの観るものを引き込む濃密な凝縮感は、さまざな役を演じる三人の俳優の視線が、やがて役や俳優のへだてを喪失し誰の視線でもなくなっていくことに由来するのだろう。そしてその透明になった東京を見つめる視線には、観客それぞれの視線、またその場にいない東京に住む(また東京を訪れる)たくさんのひとびとの視線とも重なりあっていく。

タイトルに含まれるもうひとつの言葉は「邪魔」だ。この言葉は、本来見えているはずのものがなんらかの問題によって阻まれ見えていない、つまり、いま見えている東京は本来見えるはずの東京ではない、ということを必然的に意味する。そこにあるのは、この東京のほかにどこかにあるべき東京があるというイデアへの憧憬であり、欲望である。その欲望される東京と、いま目に見える東京との落差。それが作品のここかしこに見える作者・綾門優季の東京へのむきだしの〈愛/憎〉の正体なのかもしれない。そうだとするならば、Bプログラムのラストでの感動的な邂逅は、けっして出会うことのないイデアルな風景とのそれをえがいた、奇跡的なファンタジーではなかったか。

 

俳優陣では、発話する言葉との距離感をキープしつつ演じる新田佑梨の不思議な存在感がいつもながら素晴らしかった。また、唯一ふたつのプログラムに共通してキャスティングされた野村麻衣の、「肚」ひとつで演じる役を切り替える上手さと、じっと床に座っただけで醸しだす空気の濃密さは特筆もの。

 


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