黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

二月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

歌舞伎座の昼の部は『菅原伝授手習鑑』の半通し。菅原道真の身にふりかかる悲劇をえがいたこの傑作義太夫狂言の前半部である。十三世片岡仁左衛門の二十七回忌追善として、当代の仁左衛門が菅丞相を五年ぶりに演じる。

 

「加茂堤」は全員が初役という新鮮な一幕。桜丸の中村勘九郎は、セリフの明晰さにくわえて、若々しさと明るさがよく出た桜丸。そのポジティブさがのちの悲劇を際立たせるが、いささかこの役にふさわしい柔らかさが希薄と感じられるのも事実。桜丸の妻・八重は片岡孝太郎。最近では時代物の重厚な女房役などでも素晴らしい成果を見せる孝太郎だが、さすがに気の強い若い娘(女房だが)を演じると堂に入っている。桜丸と艶めいた言葉をかわして笑わせながらも、あくまでさらりとしているのがこの場にふさわしい。白丁を身にまとった姿が逆に色気を感じさせる不思議。

意外な配役と思った中村米吉の斎世親王だが、たしかに設定は十代の若君とはいうものの、さすがに幼すぎに見える。苅屋姫は片岡千之助。

 

「筆法伝授」は武部源蔵・戸浪夫婦を中村梅玉と中村時蔵が演じる。不義の罪を犯す色気もほのかに感じさせながら、「寺子屋」に通じるさらりとした地の芝居のていねいさもあり、『菅原伝授手習鑑』前半のなかでも地味ではあるが演劇的な面白さに満ちたこの場にぴったりとはまっている。まず、花道から出た二人が奥方・園生の前の姿に気がついて足を止め平伏するそのイキからしてうまい。呼び込まれ本舞台へ出てからも、徹底して主家への申し訳なさ、勘当を受けて四年を経た現在の身の上を恥じる心がにじみ出るリアリティ。奥書院へ通された源蔵が、菅丞相の姿を目にして、思わずわずかに後ずさりし平伏しなおす、そのさりげないなかに見せる旧主への畏れ。これまで観てきたいくつもの「筆法伝授」より、芝居として充実している。

仁左衛門の菅丞相は、きわめておさえられたセリフのなかに気品と強さを感じさせる名演。源蔵の手跡を見ての「真名といい仮名といい」から「見事、見事」とのセリフで、どんなにか源蔵が救われただろう。また「伝授は伝授、勘当は勘当」によって、けっして取り返せないものがあることを源蔵が突きつけられただろう。仁左衛門のセリフが、見るものを源蔵に共感させるのだ。

園生の前は片岡秀太郎。希世は坂東橘太郎。

 

「道明寺」は方向性のまったく異なる二人の主役が、それでもともにドラマに深みをあたえているという点で奇跡的な融合を見せている。

玉三郎の覚寿は、十年前に初役で演じたときと基本的な芝居は変わらないのだが、その心理的なリアルさをどう構築していくかということへおおきくウェイトを寄せているように見える。一例を挙げれば、娘・立田の前を殺され、その犯人が娘の婿・宿禰太郎だと気がついてから、その敵を取るくだりだろう。娘の死骸がくわえていた布の切れ端から宿禰太郎を犯人と断定し、信じられないといった形相で睨むギリシャ悲劇のような独特の恐ろしさは前回同様。そこからフラフラと取り憑かれたように立ち上がり、観客さえも騙されるほど平静を装って(偽の容疑者である)宅内に近づき切ると見せかけ、返す刀で宿禰太郎を老女とは思えない勢いで一刀のもとに斬りつけるそのイキが、今回はよりメリハリのある突っ込んだものになっている。まるでサスペンス映画を見ているかのようなその息もつかせぬ緊張感には思わずはっとさせられた。また「相手は姑、わしが手にかけた」や「娘が最期もこの刀、婿が最期もこの刀」のセリフに込められた、どこにもぶつけようのない憤りと苦悩も、きわめて現代的な感覚にあふれている。古典歌舞伎の三婆という枠をはるかに超えた、人間劇としてのリアリティ。

これにたいして、菅丞相を演じる仁左衛門は、もとより古典歌舞伎のなかに明晰な心理のドラマを見出し、それを歌舞伎の記号的な型・演出をとおして表現しようとしてきた役者。玉三郎と方向性は遠からずと思いのほか、前回演じたときよりもいっそう表面的なものが削ぎ落とされている。「ハラで芝居を」とか「達観した」というひとことで言い表せるほど単純なものではない。この菅丞相はこの場で、いったいなにを嘆いているのか。それは、みずからに振りかかった理不尽な不幸を嘆いているのではない。みずからと「かかわる者たち」がことごとく不幸になっていく、そのどうしようもないありさまをこそ、嘆いているのではないかと思われた。「道真これに来たらずば、かかる嘆きもあるまじ」という言葉が、淡々と発せられながらこれほど痛切に聞こえたのははじめて。だからこそ菅丞相は、餞別代りにとひそかに苅屋姫の同道をすすめられても、それを断るのだ。自分とともにいることで愛する娘をこれ以上不幸にするわけにはいかないからである。家族とも、権力とも、住みなれた都ともわかれ、ひとり西国へ行く。しかしそれはけっして絶望の途ではない。花道を去っていく仁左衛門の表情のなかに見えたのは、別れの悲しみだけではない。いまここにある不幸の連鎖がこれで断ち切られるという、ある種の解脱ともいうべき明るさではなかったか。この世界の矛盾や理不尽、不幸をひとりで彼方へ持ち去ってゆく菅原道真。それこそ神格化されるべき存在だろう。そんなことさえ感じさせる、傑作の菅丞相であった。

まわりの役も充実している。とくに坂東弥十郎の演じる宿禰太郎は傑作。ものわかりの悪い、単純な赤っ面の悪党という典型にとどまらない人物像が明確でよい。計略を知られてしまった妻を手にかけるその時、ためらうのはただ気が弱いからではない。なにをするわけではないのに、そこににじみ出る夫婦の愛情。藤原時平に命じられ、父のいうがままにすすめて来た計画のなかで、おもわず課せられた妻殺し。このとき心に打ち込まれたものが、のちに覚寿に追求されたときに生きている。ここにも『菅原伝授手習鑑』をとおしてくりかえしえがかれる「家族の崩壊」のものがたりがあったのだと、あらためて気づかされる。

立田の前は孝太郎。みずからの夫と舅が企てるおそろしい計画をとどめようと説得するくだりは思わず引き込まれる切実なる美しさ。また幕開きでの妹・苅屋姫とのやりとり、母・覚寿への詫び言をするくだり、いずれも苅屋姫とのイキがぴったりあっていて絶妙なアンサンブル。その苅屋姫は千之助。はじめての赤姫、もちろん技術的にこれからというのは当然だが、意外にもこの場にふさわしい古風さがあってよい。重厚で冷徹さのきいた歌六の土師兵衛、見物に媚びることなくていねいに道化役を演じてはまった勘九郎の宅内も印象に残る。

いずれもアプローチのしかたはことなれど、人間のドラマとしての奥行きをこれまで以上に拡張したという一点において、見事にまとまった感動的な一幕。二時間ちかくにおよぶこの重厚な時代物が、あっという間であった。

 

 

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