黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

二月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

夜の部も十三世片岡仁左衛門の追善演目がいくつもならぶ。だが、小品というしかない演目ばかりで、腰を据えて観られる歌舞伎らしい演目は『文七元結』だけという、なんともさみしい番組である。

 

『八陣守護城』は忠義の臣・加藤清正=佐藤正清のおおきさを見せるというだけの、三十分にも満たない一幕。その佐藤正清を片岡我當が演じ、不自由ながらも健在ぶりを披露。

 

『羽衣』は能に取材した小品。坂東玉三郎のこの数年の歌舞伎座出演のほとんどが、能の演目のシンプルな歌舞伎舞踊化だが、こちらもその延長のひとつ。

演出面でやや半端な印象をうけるところがちらほら。中村勘九郎の演じる伯竜がただ下手からスタスタと登場するのには、なにか工夫があってよさそうなもの。松の枝にかけられた羽衣に伯竜が気がつくのも、あまりに無為といえば無為。玉三郎の天女が花道からの登場する場面も、くるりくるりと身を翻し本舞台へ出るのだが、天女が宙を舞うようではあるが、その時点で羽衣を失った身としては違和感。有名な「疑いは人にあり」をセリフでせっかく印象づけながら、「天に偽りなきものを」を長唄にとらせて散らしてしまう勿体なさ。

そのあとの、勘九郎が羽衣を返すかどうか逡巡するくだりは、シンプルながらなかなか上手く効果的。羽衣を身にまとって「東遊びの」からは能がかりになり、たっぷりと舞う玉三郎がさすがの美しさで、ようやく溜飲が下がるのだが。もっと整理されれば、よい舞踊劇になるのではないかと思われた。

 

 

『文七元結』は尾上菊五郎の長兵衛で。これまでの菊五郎は、黙阿弥あたりの世話物かと思うほど楷書の長兵衛を演じてきた。そのリズム感がつくりだすアンサンブルこそが、当代菊五郎らしい『文七元結』の特色であった。それが数年ぶりに観る今月、驚くほど気持ち本位でさらりと演じている。ことに「大川端の場」での文七とのやりとりはこのうえなく自由自在で、どこにも作為を感じさせない。「もし自分の持つ五十両をこの若者にやったら」といったいいつ思いつくのか、それさえも明確にしない。それがいつのまにか「ひとの命は金じゃ買えねえ」から手を合わせて「お久、ありがとうよ」と捨て台詞となり、知らないうちに見るものをそのクライマックスへと連れて行ってしまうあざやかさ。いままでとはまったくことなる風景の、きわめて深い感動をおぼえる場面となった。もしかしたら六代目菊五郎の「リアル」とは、このあたりのことだったのかも知れない。

長兵衛の女房・お兼役は、ながらく澤村田之助が、田之助が舞台に出なくなってからは中村時蔵が演じていたが、今月は初役となる中村雀右衛門。あまりやらない貧乏長屋の口煩い女房役を、思いのほか工夫して熱演しているが、「畜生め」というセリフや「言ってごらん、言ってごらん」という攻めあげがどこか似合わないのは、やはり雀右衛門のもつ芸風か。

傑作なのは中村時蔵の演じる角海老女将。やってきた長兵衛を諭すそのセリフの、ちょっとした間のつくりだす説得力。お久がどうしようもない父親のためにみずから身を売りに来た様子を語る場面は、その情景がまさに目に見えるようで特筆もの。そのお久は中村莟玉。ともすれば笑いが起きてしまう親への意見を、ぎりぎりのところで切実に聞かせたのはたいしたウデ。中村梅枝演じる文七は、笑いも涙もねらって取りに行くことなく、ていねいに演じているのがよく、そこからおのずとリアリティが生まれる。市川左團次の和泉屋、片岡亀蔵の家主ほか、まわりも充実して見応えある一幕であった。

 

『道行故郷の初雪』は新口村にたどり着いた梅川忠兵衛の短い舞踊劇。

見るからにぴたりとはまった梅玉の忠兵衛。そして、近年では老役や脇の女将ばかりの片岡秀太郎が、声も所作もじつに若々しく、本格な梅川を演じていてさすが。これぞ上方の女形という手本を見るようだ。

 

 

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