黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

「主人が」は「わたしの夫が」に置きかえられるのか

 

某タレントの恥ずかしいことこのうえない破廉恥な不倫騒動について、その妻である女優が「主人の無自覚な行動により、……」と謝罪文を発表した。この「うちの主人」という表現にたいして、ちいさな炎上とも言うべき反応があった。いまの時代にあって「主人」もなにもない、この女優は夫の召使いではない、というフェミニズム的立場からの意見である。

こういった意見はもちろんいまに始まったことではないが、なるほどそういう感覚は数年前よりも急速に社会に浸透してきているのだなと実感させるものであった。

 

個人的にはその発話者自身が選択して使用しているなら「主人」という表現を他人が責めたてることはないと思う。だが、その表現を生む認識のありかたや社会の構造そのものが、変化していくことがのぞましいのはたしかだ。現代社会にあっては夫は妻の"employer"でも"master"でもないのだから、過ぎし時代の表現が亡霊のようにわたしたちの深層心理に影響をあたえつづけるべきではないだろう。しかし、この問題は「看護婦」が「看護師」に変化した(そしてそれは急速に浸透し定着した)ようにはかんたんにはいかない。

ひとつには、今回もさんざん意見がかわされたように、立場がかわったときの表現のしにくさがある。発話者自身が自分の配偶者のことを「主人が」「家内が」ということを避け「夫が」「妻が」と言い換えることは容易だ。しかし、発話者が会話の相手や第三者にむかって、「あなたの夫が」「あなたの妻が」とはなかなかいえない。それが目上の立場のひとにたいしての場合ならなおさらだろう。これが英語なら"your husband"や"your wife"ですむのかもしれないが、立場や身分の違いを言語表現の深層まで複雑にしのばせる日本語はそうはいかないのだ。

(ちなみに"husband"という英語にはもともと家政の管財人、他人の財産を管理する権利を持つもの、というような意味もあるので、じつはそんなに単純な解決にはならないようだ)

 

しかし、かりに近い将来「あなたの夫」「あなたの妻」「山田さんの夫が」という表現が定着した(その可能性はじゅうぶんにある)としても、そこにはあらたな問題が生じかねない。

「あなたの夫」「わたしの妻」という表現のなかには必然的に「あなたの」「わたしの」あるいは「〇〇さんの」という属格(英語で言ういわゆる所有格)をあらわす言葉が存在する。「主人」「家内」といえば必然的に「わたしの」を含意し、「ご主人」「奥さん」といえば「あなたの」や「彼/彼女の」を含意しているが、「妻」や「夫」だけではどの人物をさすのかあきらかにできないから当然だ。

ならばそのとき、「いま『わたしの妻』とおっしゃいましたが、彼女は『あなたの』所有物ではありませんよ」や「ぼくのことを『わたしの子供』なんていわないで。ぼくは『あなたの』ものじゃない」という会話がかわされることは容易に想像できる。(というよりじっさいに現在でもある)

もちろん属格・所有格としての「わたしの」「あなたの」という表現にはかならずしも「所有物である」ことを意味するものではないはずだが、どうしてもそのニオイを強烈にともなわざるをえない。それをできるかぎり回避するためには、英語で言うところの"your 〇〇"ではなく"〇〇 of you"のように、日本語でも言い換える日がくるのかもしれない。人格をもつ対象については、属格の「の」をつかうことはできなくなるわけだ。そして夫や妻は自分の所有物ではないのだから、身内にたいして勝手にへりくだった表現をつかうことも避けねばならない。それをつきつめたとき、わたしたちの日常会話はつぎのようなスマートではないものになることだろう。

「ご無沙汰しております。あなたにとっての夫である方はおかわりなくお元気ですか」

「こちらこそご無沙汰しております。わたしにとって夫であるひともお会いしたかったといっていました。あなたにとっての妻である方もおかわりありませんか」

「こんどはわたしにとって妻であるひとと、わたしにとって子供であるひとも一緒におじゃましますよ」

「まあ、楽しみだわ」

 

誤解されないためにあえていえば、もちろん真摯なフェミニズム的取り組みを茶化しているわけではない。社会の法的な制度がいくら整備されても、人々の意識はなかなかおなじように変化していくわけではないので、その遅々としてすすまないさまにたいして、まずは言語から変えていこうというのはある意味有効だろう。言語は社会をうつしだすものであるとどうじに、言語のほうから社会のありかたやひとの心理に影響をあたえることもまた事実だからだ。ソシュールがあきらかにしたように、言語こそが世界のありかたをかたちづくっているのである。

しかしその言語の「恣意性」は、ある日誰かが「これをこういう言葉であらわすことにしよう」と勝手に名付けることができるという意味での「恣意性」ではない。やはり言語とは社会のありかたから発生するということは、おおくの場合いまでも間違いではない。(だからこそその社会がことなれば言語による世界の切り取り方の構造もことなる、というのがソシュールのいう「言語の恣意性」だ) したがって、言葉の人工的な操作は、社会生活にある種の「いびつさ」を招きかねない。

いたずらに表現を置きかえるだけでは、言葉と世界は一致しない。「主人が」は「わたしの夫が」に置換できるが、「ご主人」はかんたんに「あなたの夫」に置換できない、という話は、ちまたでいわれているような敬称表現の問題だけにとどまらない。それは属格・所有格の問題でもあり、つきつめれば「ひとは他人を所有できるのか」というきわめてラディカルな問題をもはらんでいるのである。