黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

図夢歌舞伎『忠臣蔵』(Streaming+)

 
 
図夢歌舞伎と銘打って、松本幸四郎を中心に、リモートでの歌舞伎上演をさぐる取り組み。五回にわけて『仮名手本忠臣蔵』を上演して配信しようという企画、今日はその初回である。ゲストに中村壱太郎と市川猿弥が参加。
 
口上人形(声・猿弥)の登場となり、今回の企画の紹介、忠臣蔵の背景などをのべる。義太夫の語りなどもつまみ食いしているうちに開幕となる。
 
「大序」は、鶴岡八幡宮の簡略化された書割のまえで、高師直(幸四郎)が顔世御前(壱太郎)をくどく場面からはじまる。ほぼ固定化されたカメラが演者の腰から上しか撮っていないので、役者がなにをしようとも画面のこちらにはつたわらないのではあるが。登場しないが若狭之助が「画面のそとにいる」というていで師直が口にするセリフは、三段目で塩谷判官にむけて放たれる悪態を借用したもの。
 
こちらがきょとんとしている間もなく、場面は「三段目」の「進物場」へ。暗幕の前にひとり立ってみずから応対する師直へ、加古川本蔵(おなじく幸四郎)があらわれ賄賂をわたすのだが、なんということはない、リアルタイムではなく合成した別撮り画面だ。
 
口上人形のつなぎ弁士をはさんで、松之廊下での「刃傷」へ。ここでも若狭之助は画面のそとにいるという設定で姿も声もなく、師直のひとり芝居がつづく。
そこへ塩谷判官が登場するが、画面に見えるのは足だけ(しかも別撮りの別画面)という趣向。ただし、ここできわめて面白いのは、その後師直をとらえるのは、判官目線の主観カメラであるということ。判官とおなじ目線で師直のいびりを見られるのはなかなか興味深いアイディアだ。(ときおり画面は切り替わり、顔を映さないままに判官の手や肩を映す)「本性なりゃおみゃ、どうするのだ」とカメラにむかってせまる師直の顔は、なかなかみることができない絵だ。そして幸四郎の師直が、部分的に叔父・吉右衛門を思わせ、舞台できちんと見てみたいと思わせた。
師直が斬られて、ようやく判官の顔が画面に映るが、これも幸四郎の別撮り映像。最後にまたまた別撮りの加古川本蔵が「不覚だ、不覚だ」となげいた姿でこの日の配信は終わった。
はじまってから、わずか三十分あまりである。
 
なにもできないこの時期に、なにか新しい上演のかたちをもとめたその意欲は買う。しかしながら、課題だらけどころかその出来はなかなかにお粗末な結果だ。
まず画質もひどければ、照明も素人レヴェル。音声にいたってはスマートフォンで動画撮影してもこれほどではないだろうというもので、聞き取れない部分も少なくない。
いまどき無名のYouTuberでも、もっとまともな映像と音声で動画を作成する。それについては、顔を突き合わせての稽古や収録ができないことは言い訳にならない
また、わずかに壱太郎の顔世御前が登場するとはいえ、あとはほとんど幸四郎の「ひとり芝居」。それはそれで面白いのだが、それならもっと構成と台本に工夫ができただろうし、選ぶべき作品はほかにいくらでもあったはず。
なんといっても、どこまでリアルタイムで上演したのかわからないし、リアルタイムて演じる意味がない。(そのあとトークショーがつづいたことを思えば、メインの映像さえも、どこまでリアルタイムだったのかわからない)、それなら編集を前提としたスタジオ収録の演劇や映画となんら違いがないわけで、そもそも新しい試みでもなんでもない。ほんとうになにか映像として歌舞伎のあたらしい可能性を求めていくのであれば、まずは企画者がほかのジャンル(とくに映像の)をもっと知るところからはじめるべきだろう。
 
この素人の実験は、実験として見るかぎりは大事な一歩であったかもしれない。だが観るものに¥4,700ものチケット代を払わせるなら、残念ながらその内容はあまりに拙すぎたと言わざるを得ない。
偶然ながら、おなじ日に岡田利規の「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」が配信されたが、こちらはいろいろ考えさせられるところはあっても、なかなかに意欲的なリモート演劇であった。現代演劇は、ポストコロナの世界における表現において、歌舞伎の一歩も二歩も先を行っている。
 
 

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