黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

八月花形歌舞伎(歌舞伎座)

 

今年の二月以来、ひさびさに開場した歌舞伎座。コロナウィルスへの感染対策として、興行形態をおおきく変更しての再スタートとなった。観客の鑑賞や入場にかんしてのみならず、楽屋での徹底した対策など、これでもかと考えられているようだ。

筋書や食事の販売もなければ、イヤホンガイドやブランケット、オペラグラスの貸し出しもない。大向うからの掛け声も禁止、ロビーでの観客どうしの会話も自粛を求められている。あまりにあじけないという意見もあるかもしれないが、これはこれで舞台を観ることに集中できてよかった。ここまでこぎつけた関係者すべての努力に、こころから敬意を表したい。

舞踊を中心とした一幕づつの演目がならぶなかで、第三部と第四部を観た。

 

『吉野山』は市川猿之助の佐藤忠信と中村七之助の静御前。

猿之助の以前とかわることのない身体のキレのよさに目が覚める思い。鎧と鼓を御大将に見立て上手の静と対称にわかれる忠信の居所は、ややいつもより下手寄り(つまり舞台中央から離れている)ように見え、いわゆるソーシャルディスタンスでもあるまいが、なかなかふたりの(どうじにそこにいない義経との)関係が見えるよい絵になっている。

七之助は持ち前のシャープさがやや後退し、それにかわってふわりとした柔らかさがあった。花道七三でふっと見上げた姿も、トンとつく杖も、きまるようでいてけっしてきめない。それがいかにも『吉野山』らしい静で、あたらしい七之助の一面を見る思いがした。

市川猿弥の早見藤太にひきいられた花四天は6人。観客席のそばでセリフを言わせない工夫だろう、いつもとちがって花道上でのかけあいはすべて本舞台で行われている。猿之助の幕切れでのぶっかえりも本舞台。狐の姿になり、はじめて花道七三へ行くという趣向。

 

第一部から第三部までは登場人物もすくなく、かつ密着した状態でセリフを発する必要のない舞踊がならべられているなか、ただひとつの例外が第四部である。『与話情浮名横櫛』の文字をチラシで目にして思ったのは、これをどうやって上演するのか、その工夫が見どころのひとつであるということだった。とうぜんのことながら「見染」はなく「源氏店」のみの上演。そのため登場する役は最低限ですむ。

与三郎は松本幸四郎。花道の出からしてすっきりとした江戸の二枚目で、その姿と現代的なあやうい雰囲気という点においては誰もかなわない与三郎だ。お富を問いつめて左足を伸ばしのけぞったかたちのよさも特筆。

お富を演じるのは中村児太郎。玉三郎と父・福助のそれぞれから真似できるところはとりいれながら、それでいて二人ともまたちがうお富が生まれそうだ。とくに使える声の幅がひろがり、セリフが立体的になった。もちろんまだまだ楷書でしかなく、世話狂言のもつ自然な自在さには欠けるが、千秋楽までどのように進化するか楽しみ。

蝙蝠安は弥十郎。番頭権八の片岡亀蔵はこれも児太郎にあわせてかやや楷書すぎる気もするが、セリフと芝居の明晰さは群を抜いている。多左衛門は中車。

世話らしい雰囲気の欠如の原因は、芝居だけでなく歌舞伎座の舞台にもあるかもしれない。この休館中に全面張り替えたのだろうか、真新しい床に反射する照明がいささか白々しい。もうすこし工夫はできなかったものだろうか。

演出上の変更という面ではおおくはないが、お富が権八の顔に白粉を塗りたくる場面では、メタ言及的だがぎりぎり芝居として通用する工夫があり面白い。第四の壁を越えて安易にメタな枠外のくすぐりを言うのはかんたんだが、そのぎりぎりの境目にとどまって観るものを笑わせるのはむずかしく、児太郎の手柄。与三郎と安の花道七三でのやりとりも本舞台へ変更。そして幕切れはさすがに芝居がこわれかねない一線を越える変更(二人は抱きあわない)がくわえられるが、いまの現状へのおおいなる皮肉が感じられ、これはこれで大喝采。わざわざそのために与三郎が出てきたとも言える。

 

第三部と第四部しか観られなかったのだが、共通して感じたのは役者の声のとおりのよさ。いろいろ要因はあるとしても、なんといっても半分以下しか観客が入っていないことがおおきい。客席の埋まり具合でおどろくほど会場の残響は変化する。(部分的には演出の都合などでこれはスピーカーからかと思った声もあったが)役者の声がクリアに空間をつたわって耳に届くという、ナマの舞台ならではの最大の特徴はじゅうぶんに堪能できたように思われた。

 

 

f:id:kuroirokuro:20200803112315j:plain