黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『夜鳴きうぐいす』『イオランタ』(新国立劇場大劇場)

 

けっしてメジャーなレパートリー作品とはいいがたいふたつの演目を抱き合わせた、意欲的なプログラムが新国立劇場のオペラのラインナップにならんだ。ストラヴィンスキーの『夜鳴きうぐいす』とチャイコフスキーの『イオランタ』である。

ともにロシアの作曲家のオペラというのみならず、アンデルセンの童話を原作にしているという点でも共通点がある。また、物質的なものにたいする精神的なものの優位というロマン主義的かつ反唯物論的な主張が、(これがきわめて特異なことではあるが)キリスト教的な影響のほとんどない世界観のなかでえがかれているというポイントにおいても、じつはテーマをおなじくしていると言える。このふたつの演目を選んだのは芸術監督の大野和士なのだろうか、じつに何重にも意味深い選択だ。

 

『夜鳴きうぐいす』は、ひとことで言えばきわめて「端正」な上演である。その意味でもっとも成功していると思われるのは、タイトルロールの三宅理恵。ナイチンゲールのパートをここまで無色透明にかつ高いレヴェルで歌えているのは特筆すべきこと。また演技においても、感情の起伏とは無縁な純真さがみごとに表現されている。まさに「ひとを得た」また「役を得た」としか言いようがない傑出したナイチンゲールであった。

料理長役の針生美智子の透明度が高くよくとおる歌声もよい。この料理長がよいのは歌だけではなく、第二幕においてひとびとがナイチンゲールの歌声を聞いて揺れ動くなか、なかば腕を組みながらじっと歌に耳を傾けている姿も印象的。死神役の山下牧子はみじかい出番ながら、その力強い低音で一瞬で舞台を支配するさすがの存在感。

侍従役のユシュマノフの声が客席にほとんど飛んでこないのにはいささか閉口するが、高いレヴェルのそろった女声陣をはじめ、ソリストは脇までよくそろった良いアンサンブルを聞かせる。高関健の指揮もまた、じつに「端正」な演奏だ。オペラ的なドラマづくりという意味ではまったく物足りないが、このストラヴィンスキーの(比較的シンプルな構造とはいえ)難易度の高いアンサンブルをまとめあげた功績はすくなくないだろう。なかなか上演される機会のないオペラを、この完成度で劇場で聴けたことに感謝したい。

それにたいして、演出の仕事は低調だ。たしかに現代的な絵本とでもいうべきシンプルで美しい舞台装置は効果的なものだ。しかしそこでくりひろげられる演技とそのプランはあまりに不徹底で中途半端なもの。いくつか例をあげるとすれば、作品上きわめて重要な立ち位置にいるはずの漁師は、なぜあんなに不用意に袖から出て無神経に棒立ちで歌っているのか。なぜ群衆の動きはあんなにまで場当たり的で野放しなのか。なぜナイチンゲールのラストの飛び立ちにあたって、あんな噴飯物の(しかも効果をねらってどころか、暗がりで中途半端に見えるかたちで)退場をさせるのか。機械仕掛けのうぐいすを、なぜいまさら感のある表層的な解釈ですませてしまえるのか。それらには音楽の「端正」さとは正反対に「雑」という言葉が思いうかぶ。コロナウィルスの影響で演出チームが来日できず、リモートによる仕事だったということは同情すべきだが、現代のオペラの基準からすればそれを理由にはできないレヴェルで、決定的にセンスと問題意識に欠けている。

 

後半の『イオランタ』は首をかしげざるをえない低水準。なによりも音楽がオペラのアンサンブルとしてまったく成立しておらず、このクラスのオペラハウスではなかなか聴くことがないレヴェルで散らかっている。オペラをほとんど指揮しない高関にとっては、ストラヴィンスキーはともかくこの作品ではことごとく空回りしている。本来の指揮者が来日できなくなったための、土壇場でのピンチヒッターゆえに気の毒ではあるのだが。

ソリストのなかではロベルト役の井上大聞が群を抜いて高い水準の歌と演技。安定した声のフォームを維持しながら、柔軟に音楽をアンサンブルする余裕も見せる。またなんといっても舞台上での演技がきわめて自然であり、それでいながらみずからが歌っていないところでも気が抜けることがない。ルネ役の妻屋秀和はその得意とする低音はもちろんのこと、高音域までよくコントロールされた声で見事なアリアを聴かせる。

ヴォデモン役の内山信吾はいたいたしいまでの不調ながら、最後まで歌いきったその責任感と意志の強さを評価したい。ただ、本来予定されていたキャストが軒並み来日できずカヴァーキャストが代役で歌っているなか、なかなか降板もしにくい事情もあるだろうが、内山のキャリアのためにも制作サイドのなんらかの動きがあるべきだ。

そして、この『イオランタ』においても演出の残念さはあきらかだ。いたるところでソリストが見せるちぐはぐな演技が演出家のオーダーだとしたら大問題だし、たとえソリストの勝手だとしても、それにたいしてなにも対処できないのであれば演出家としてなんの仕事をしたと言えるのだろう。

とくにラストシーンでの「なにもなさ」ぶりには閉口する。じつは『夜鳴きうぐいす』と『イオランタ』をむすぶもうひとつの共通点として、ひとがみずから「主体的に選択することの価値」がある。前者で皇帝は与えられた機械仕掛けのうぐいすには癒されず、みずから求めて得たナイチンゲールの声に救われる。後者でも、イオランタの眼病はイオランタ自身が治したいと望まなければ秘術が利かない。ここでは主体的に選択するものにこそ価値があるという重要なメッセージが隠されているはずなのだが、イオランタの選択の葛藤にも、その結果視力を得たという奇跡のドラマにも、この演出家には興味がわかないようだ。吉本新喜劇のお涙頂戴シーンでみられるような古典的な配置をしただけで、なにひとつドラマに貢献していない。まるで数十年前の学芸会的オペラをみるようなラスト15分の舞台には、夢も希望もなかった。オペラの演出がこの程度でよいと関係者や観客が考えているとすれば、それこそ絶望しかないだろう。

 

 

 

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