黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

 

今月の第二部は、四月に前半が上演された『桜姫東文章』の「下の巻」である。

なかなか収束しないコロナウイルスの影響のなか半数に減らされた客席は、片岡仁左衛門と坂東玉三郎の当たり芸を観ようとおおくの観客で埋まっていた。

 

幕が開く前に、口上があり「上の巻」の内容をかんたんにおさらいするという親切な趣向あり。

前半の「岩淵庵室の場」は、衝立をずらしその向こうにあられた仁左衛門演じる清玄の、わが身を嘆くそのセリフがじつにうまい。身体を病み、どうじに精神をやられているかつての高僧のいまの境遇が、ひとことひとこと言葉のなかに滲みでるリアルさがある。

この場の芝居をまわしていくのは中村歌六演じる残月と上村吉弥演じる長浦。ふたりとも芝居がうまい役者だけあってその役割ははたしているのだが、両者ともやや硬く、南北の生世話な風味がうすく感じられた。彼らふたりが清玄に毒を飲ませ、清玄の顔に痣がうかびあがる一連の流れも、三者の芝居の段取りが悪く効果的ではない。ここはギリシャ悲劇にも現代演劇にもまけないドラマティックな場面になる可能性があり、あらためて演出がみなおされるべきところだろう。

落雷(これもなんとも工夫の余地のある照明なのだが)のショックで生きかえった清玄が包丁を片手に桜姫にせまる場面は、中途半端な照明の暗さもあってなかなか絵にならずいまひとつ。ただし、玉三郎の海老反りはさすがに美しく見せる技術を知っているなと唸らせるだけの見事なものだし、桜姫に必死にとりすがる清玄の姿は、先々月「稲瀬川の場」で見せてくれた人間の認識を超えた深い精神のドラマ(四月大歌舞伎第三部(歌舞伎座) - 黒井緑朗のひとりがたり)を思い出させるものであった。
この幕の冒頭で「毒トカゲ」の入った革袋が縁の下に投げ捨てられるが、ややわざとらしく、かつぞんざいで気になる。それにたいする残月の反応、落ちていることに気がつく芝居も不自然。
幕切れの花道七三での桜姫(玉三郎)の「所詮この身は」でのかわり具合は絶妙で、この名優の本領発揮と言うべき芝居に溜飲が下がる。
 
つづく「権助住居の場」はなんといっても仁左衛門の権助の隙のない悪の格好良さがよい。南北作品の悪人は悩んだり後悔したりしないが、そういう意味でまさに理想的な権助。玉三郎の桜姫も、廓言葉と姫言葉との混じり具合が、ねらって笑いを取ろうとせず自然であり、絶妙なバランスでよい。それが、あくまでその中身は変わらぬ姫であり、目の前にいる赤子がわが子であると知ったり、権助が実は親の仇であったと気がついて本性にかえる芝居にリアリティをもたらすからだ。
しかしこの場の後半、いざ桜姫が権助のみならずわが子までを手にかけて殺害するという不条理のドラマが、いまひとつもりあがらない。ひとつにはわが子といえども仇の血をひくかぎりは殺さねばならないと決意するハラがひじょうに見えにくいこと。そして権助殺害にいたっては、それが桜姫の主体的な意思によるものなのかもわかりにくい。これこそ「稲瀬川の場」で仁左衛門が見せた清玄の突如の心変わりにも匹敵する、鶴屋南北のグロテスクな面白さを生かせる場面だと思うのだが。
赤子の鳴き声が、古典的な赤子笛のものよりもいささかリアルなものであったことにも注目したい。それが古典的な鳴き声であれば歌舞伎の世界のなかの「記号」として機能する。だがここまで鳴き声がリアルだと、その赤子を足蹴にしたり叩いたりする清玄の行為に嫌な感触がつきまといすぎる。それが狙いであればそれでもよいのだが、そうなると前述のようなドラマティックな場面のあっさり具合と矛盾する。
ただし、このリアルな赤子の鳴き声がうまく生かされていると感じられたことがひとつだけあり、それは片岡孝太郎の演じるお十の芝居だ。「庵室」においても「権助住居」においても、お十のあふれんばかりの母性(その赤子はもちろんお十の子ではないのだが)というものを感じさせる芝居を見事にひきたてている。ことに後半、権助に赤子に乳をやれと言われて舞台奥で後ろ向きになって授乳する場面があるが、その後ろ姿の情感あふれるリアリティは、この第二部のなかの白眉と言ってもよい。いまこそ孝太郎の政岡で『伽羅先代萩』を、と思わせた。
 
大詰の「三社祭」で切口上を仁左衛門と玉三郎がわけて言って幕となる。一時代をきずいたふたりの名優の芸の充実ぶり、これからもおおくの古典作品で共演して、名舞台でわたしたちを魅了しつづけてほしい。

 

 

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