黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『夕鶴』(東京芸術劇場)

 

團伊玖磨のオペラ『夕鶴』は、木下順二の同名の戯曲にたいして「一言一句かえないこと」を条件に作曲された。日本人の手によるオペラとしては類を見ないほど再演をかさね、海外の劇場でも上演されている。オペラの演目としてはもはや「古典」といってよいレパートリーである。

テキストに手を加えることが許されないのとおなじように、團の作曲した音楽についても、いささかのカットや変更、編成の縮小も許されていない。文字どおりそのまま上演することが求められる作品にあたって、どこまで演出家がその手腕を発揮できるかは見どころのひとつだと言ってよい。

そんな『夕鶴』に現代演劇を代表する演出家・岡田利規が挑戦するというのは、それだけでひとつのおおきな衝撃だ。たしかに今回の『夕鶴』は、ほかのどんな『夕鶴』ともことなる独特なものであり、いちどは観て損はない舞台であった。

 

ステージ中央にはメインのアクティングエリアになる二重舞台が設けられており、その中央は緑色の頑丈な扉をもつおおきな箱状の部屋がある。その部屋の前面には平台のようなシンプルな3メートル四方程度の仮設舞台。これらのすぐ下手側にはややリアルにつくられた現代のマンションのリビングのような部屋があり、簡素な椅子とダイニングテーブルが置かれている。この部屋の屋上はロッキングチェアと植栽がおかれたルーフガーデンになっており、部屋の裏側から階段であがれるようになっている。こう書くと、おそらくこれがオペラ『夕鶴』の舞台だなどとは夢にも思わないだろう。

これらのメインの舞台装置のほかに否応なく目をひくのは、中央の建物群からややはなれた上手側に置かれた、サーカス小屋の観客席のようなちいさなひな壇。第一幕のほとんどのあいだ少年少年合唱がここに陣取り(つうの二つのアリアなど何箇所か例外的にこのひな壇からいなくなる)、メインの舞台を中心にくりひろげられるおとなたちのものがたりを「観劇」することになる。オペラで言えば『道化師』の第二幕のサーカス小屋での劇中劇のシーンを思い浮かべればわかりやすいかもしれない。

そう、この『夕鶴』は舞台上にならんだ子供たちにむかって見せるというかたちをとった、ある種の「劇中劇」として上演されるのである。

『夕鶴』の登場人物たちが歌うテクストは、いかにも昔話のなかの典型ともいうべきものだ。しかもそれは日本のどこかの地方の言葉などではなく、木下順二がさまざまな方言をないまぜにして「昔話らしい」言葉としてつくりあげたものだと言われている。つまり、戯曲がつくられた段階で、地理的にも時代的にもどこにも存在しない虚構のファンタジーとして昔話の枠組みをあたえられているのである。そのことが『夕鶴』に普遍的な民話性(あえていえばそれは神話性ということにもつながるだろう)を獲得することにおおきく貢献しているのだが、同時にわたしたち観るものとのとりはらうことのできない距離をつくり、現代の演劇としてのリアリティをつくりだすことをむずかしくしているのも事実だ。

それを劇中劇として上演することで「昔話」としての『夕鶴』を括弧に入れ、オリジナルのスコアをそのままにしながら現代のものがたりとして読み替える。穿った見方をすれば、わたしたちは本来すべての古典作品を無意識にこのような方法で観ているのかもしれない。そういう意味ではこの上演形態は、わたしたちの古典作品を観る視線そのものを可視化しているとも言えるだろう。

 

岡田演出のもっとも衝撃的な独特さは、第二幕にある。

第一幕の最後で扉の閉ざされた部屋のなかにこもったつうは、一晩かけて与ひょうのために二反の布を織る。織り終えたつうが扉を開いて登場するのだが、なんと扉の裏には海外のあやしげな風俗店の看板のような「ユーズル」「You-zuru」と書かれたネオンが光り、ピンク色のあやしい照明が光る部屋からは、場末のキャバレーの出演者のような銀色に光るステージ衣装をみにまとったつうが歩いて登場する。それも網タイツのバックダンサーふたりをしたがえての豪華版である。誤解を恐れず単純化して言えば、夜の街で働いていた外国からきた女がようやくしあわせに堅気の生活を送るようになれたのに、旦那のために金をこしらえるべく再び夜の街に身を売り、彼のもとを去っていくというストーリーが突如として立ちあがった。そして通常であれば愛にあふれた最後のソロは、むしろ与ひょうをはじめとする聞くものにたいする痛切な非難としてひびく。そして最後のひと声を歌いきったつうは、こともあろうに舞台セットの壁をはげしくぶち破って退場する。

唖然とするばかりの展開だが、これはけっして作品とかけはなれた解釈を無理やり持ち込んだものではない。そもそもこの「鶴の恩返し」の民話は、民俗学的にみて女性の身売りのものがたりを要素として孕んでいるからだ。男が助けたのは矢が刺さって赤い血を流している鶴だが、それがなにをしめしているかは明白だ。恩返しのためにみずからの羽根をもちいて機を織るというのは、女性がその身体を商品として売って金を得るという行為のメタファーであろうし、そうなれば機を織っているあいだは部屋をのぞいてはいけないというのも当然だ。そして男がタブーを犯しのぞいてしまったからには、見られた彼女は男のもとを去らねばならない。昔の日本の貧しい農村地帯でいくつもあったであろうその悲しい理不尽な悲劇を「鶴の恩返し」に見いだすことは、よほどシンプルにものがたりの表層だけをなぞるのでなければ容易なはずである。

つまり岡田利規がここで見せた度肝を抜く展開は、もともと『夕鶴』もといその原型となった「鶴の恩返し」の民話のなかに隠されていたものだ。岡田は今回の『夕鶴』の演出にあたって次のようにのべている。

 

『夕鶴』はわたしの物語であり、あなたの物語です。あなたの居心地を悪くする物語です。なぜ『夕鶴』の物語があなたの居心地を悪くするのか?それは、与ひょうはあなただからです。

(チェルフィッチュ公式サイトほかより引用)

 

「与ひょうはあなただ」という言葉には、この資本主義の社会のなかにあってその恩恵を当然のごとく受けているわたしたちに、のぞいてはならない(のぞこうとしない)扉の向こうでなにが犠牲になっているかを直視せよというメッセージが込められているのではないだろうか。扉の向こうからあらわれたつうの姿を見たときに感じるわたしたちの嫌悪感に近い違和感は、わかっていながら知らないふりをしている根本的な資本主義(もっと狭義に言えばそこで人格あるものが商品としてあつかわれる汎資本主義)へのそれなのである。海外からきた(連れてこられた)言葉のわからない女性という設定がくわわり、なおいっそうそのメッセージは明確になる。

ただ、疑問ものこる。一般的にこの作品は、人間の醜い欲望を生みだす資本主義と、それによって損なわれていく伝統的で素朴な価値観とが出会ってしまった悲劇として解釈される。今回は岡田が事前にインタヴューなどで、つう役を「資本主義に汚れる手前の段階にいる人」ではなく「資本主義を乗り越えた存在」としてえがきたいと語っている。たしかに今回のつうは「資本主義にけがれる手前の段階にいる人」ではなくなっているが、でははたしてそれを「乗り越えた人」として提示されているかと言うと、それは首をひねらざるを得ない。つうはけっして「乗り越え」てはいないからだ。そこには批判と糾弾はあっても、資本主義からの「解脱」とは言えないのではないか。オリジナルのように鶴の姿にもどって自然へ帰っていくというカタルシスさえもここにはなく、つうが飛行機に乗って(!)故郷の国へ去っていくのがスクリーンに投影された飛行機雲からわかる。それは資本主義からの「離脱」にすぎない。

 

つう役の小林沙羅はときおり聞かせるつやのある美声が印象的。また演出の意図をよくくんで、オペラ歌手にありがちな身体の散漫さがなく見ごたえある演技を見せる。ただその身体表現は声をかたくしてしまうことと裏腹なリスクを生じさせていて、とくに「わたしの大事な与ひょう」と「お金のアリア」の重要なふたつのソロにおいて、かためられたような身体の動きが歌声から柔軟さを奪ってしまい、息だけがからまわりしてしまっていて本末転倒な感がある。

与ひょう役を演じるのは与儀巧で、そののびやかでかがやかしい歌声が素晴らしい。与儀は音域にかかわらず日本語がきわめてクリアに聞こえてくるのもよい。与ひょうはとかく「聖なる愚者」として解釈され、必要以上に絵にかいたような愚か者として演じられることがあるが、与儀の演技はまったくそのような作為的なところがないのも好感が持てる。

指揮者は辻博之。演奏する人数のわりには分厚く響いてしまうこの音楽をうまくコントロールして、オーケストラピットもないわりには歌とのバランスを見事につくっている。ときに情熱的にたっぷりオーケストラを歌わせてもりあげるが、もうすこし要所要所でテンポを引き締めないと流れがとどこおってしまうところがいくつか見受けられた。

 

作品のもともと持っている本質的な部分を痛快にあばいてみせるというてんでは、保守的になりがちな『夕鶴』の上演史には意味のある公演となった。なぜつうは機を織るのか。機を織るという行為はなんなのか。見て見ぬふりをしているその意味を、わたしたちは否応なく考えさせられるだろう。

ただ、この演出を二度、三度と観たいかとなると話は別だ。ここであばかれた本質は、やはり昔話のものがたりのメタファーのなかに沈みこんでいるからこそ、観るものの無意識下にはたらきかけて感動させるからである。この岡田利規の大胆な演出が、またあらたな『夕鶴』がどこかで生まれるきっかけになれば素晴らしいことだ。

 

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