黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

吉例顔見世大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

歌舞伎座第三部の『花競忠臣顔見勢』は、いくつかの意味で意義深いものであった。

まず、コロナウィルスの感染対策のために出演者たちは、三部にわかれた各部をかけもちして出演することができない。そのため、いくつもの幕にわたって出番のある役を必要とする『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言などはなかなか上演しにくいのが現状だ。そのなかで、たんなる短縮版ではない『忠臣蔵』を出そうというこころみは評価されるべきだろう。

また、企画の中心となった松本幸四郎と市川猿之助のふたりがかならずしも主たる役を独占せず、若手役者にわりふったということもよく、中堅・若手がひとつになってみんなでひとつの舞台をつくりだそうというのが伝わってくる。役者の格によって厳密にならべられるはずの配役表がこの演目にかぎっては五十音順だという画期的なこころみも、その現れのひとつである。

そして、大詰めの幕切れに「夢を図る」というセリフが挿入されていることからわかるように、コロナウィルスの影響で公演ができなかった時期に幸四郎がやった「図夢歌舞伎・忠臣蔵」の発展的企画として実をむすんだものであるという意義も、つけくわえておかなければならない。

 

しかし、その内容は期待にはんしていささか薄味なものであった。

口上人形の登場につづいて「大序」となり、『仮名手本忠臣蔵』とことなり桃井若狭之助が高師直にたいして刃傷におよぶという「あったかもしれないもうひとつの歴史」がえがかれる。そしてそのまま桃井家の屋敷の場面になり、いまのは桃井が居眠りをして見た夢であったことがあかされるという面白い趣向。だがここから問題だらけの場がつづく。

桃井(幸四郎)や家臣の井浪伴左衛門(松本錦吾)らの状況説明の長台詞にまずがっかり。説明しなければならない前提を必要とするような場が、そもそも今回の版に必要だったのか。かりに必要だとすれば、それは芝居のなかにおりこんでうまく見せる方法はあったのではないか。薄味の新作めいた軽めの台本にもかかわらず、竹本をともなって大時代な演技になるのも違和感があり、なにやら「歌舞伎ごっこ」を見せられているような恥ずかしさがある。もちろん「歌舞伎ごっこ」ならそれでもいい。歌舞伎のお約束を「ネタ」として見せていく作品ならそれは成立するからだ。しかしここでは中途半端に歌舞伎役者たちが「ベタ」に大時代な型を入れ込んでくるため、かえって台本の軽さが悪目立ちしてしまう。つまりは未整理な演出の問題である。

赤垣源蔵のくだりも稲瀬川でのみじかいやりとりをみせるのみ。ここも赤垣(福之助)とおさみ(笑也)の出とすれ違いの段取りに問題あり。その見せ方がうまくいっていないので、せっかくの徳利渡しも見せ場にならずじまい。

南部坂下屋敷の場になるが、こちらも奥から尾上右近演じる葉泉院(瑶泉院)と猿之助の戸田局が出て着座するや大星由良之助の登場という、むずむずするほど妙な幕開き。由良之助につめよる葉泉院がほとんど身体が横向きのままなので、ふたりの会話が劇場にひろがらないとともに、役の格が落ちてしまう。格が落ちると言えば、由良之助の真意を知った葉泉院が幕外へつかつかと出てくるのも興ざめ。真山青果の『南部坂行きの別れ』の演出の無駄のない見事さを思わずにはいられない。

しかし、休憩をはさんだ後半はなかなか見応えがある。『土屋主税』でおなじみの「槌屋邸」の場はさすがに台本も整理されており、落ち着いて芝居を楽しむことができる。主税を演じる中村隼人がていねいで、ようやく歌舞伎を見ている気分になれる。其角の市川猿弥の自然にはこびながら要所をおさえた芝居もさすが。高家奥庭にて清水一角(幸四郎)と刃をかわす大星力弥演じる中村鷹之助が、ますます若き日の中村富十郎に似てきたのがうれしい。大詰は花水橋の引き上げ。桃井若狭之助が義士たちをとどめるなか、力弥と小浪が結ばれて大団円。

この意欲的な試みがもったいないのは、ひとえに台本と演出。思い切って土台となる旧作からはなれ、完全にオリジナルな新作として再構成したほうが面白いものができそうな気もする。

 

 

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