黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十二月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

師走の歌舞伎座の第一部は市川猿之助の『新版伊達の十役』である。

三代猿之助四十八番の内とあるが、いうまでもなく先代猿之助の『伊達の十役』は本来は4時間を超えるものであり、今月のように2時間あまりの限られた枠で上演される演目ではない。おのずとカットが施され再構成されることになり、そのあたりが「新版」というところだろうとは思っていたが、ほとんど別物といってよい構成になっていた。基本的には短縮版の「御殿」「床下」の場に、大詰の所作事をともなう早替りが入るという趣向。これを「新版」とはいえ『伊達の十役』と銘打つのにはいささか抵抗を感じる。

 

まずは「御殿」から。幕が開くと並び女中の渡りゼリフではなく、沖の井(市川笑也)と松島(笑三郎)の会話からはじまる。状況が説明されるだけでなく、沖の井と松島の立場もわかりやすい。また、病身の若君に御膳をさしあげるという意向を見せることで、つぎの政岡のセリフへのつながりも自然になる。冒頭に出ることで役の格は落ちてしまうかもしれないが、なかなかの好演でありまた戯曲としてもていねいな趣向。

猿之助の演じる政岡は、セリフ、所作ともにこってりたっぷりしていて見応えがある。タイプは違うものの、故・坂田藤十郎のそれを思いださせた。「毒」と言って手で口をおおう動作もさりげないのだが緊張感があってよい。お盆を手に「涙を」で千松を振りかえる身体のねじれた美しさは、猿之助のもっともすぐれた特徴がよく表れており、この「御殿」のなかでも屈指の見どころ。雀に餌をやったらすぐに栄御前が登場するカット版ゆえにいうまでもなく「飯焚き」もないが、ぜひじっくりと観たいと思わせる素敵な政岡だった。

栄御前は市川中車。この栄御前のよいところは芝居にリアルさがあること。だがそれは同時に欠点でもあって、山名宗全の名代としてこの場にあらわれた高貴な女性としての格がたりないように思われる。たとえば「管領家の」と言うたびに頭を下げるその必要以上にへりくだったかたちや、千松殺害時に口をおおきくあけて驚きすぎなことがあげられるだろう。どうにも抵抗しがたい権力の象徴として栄御前がこの場にいることが、菓子折をめぐる攻防や千松の死という出来事に緊張感をもたらすはずであり、その格ある存在感は必須なはず。八汐を演じるのは坂東巳之助。セリフの抑揚や間などよく研究して演じているのがうかがえるが、こちらもやはり役のおおきさに負けてしまっている。

緊張感という意味では、八汐が千松を殺す場面での舞台がやや弛緩しているのも気になった。これは沖の井、松島をはじめまわりの女中たちに原因があるようだ。半身後ろ向きに座り手を懐刀にかけたその姿は、おそらく重心のかけ方が悪いのだろうが気が抜けて見える。

 

「床下」ではいつもの荒獅子男之助が松ヶ枝節之助になっており、赤面の化粧はシンプルな隈に、衣装も白系統のさわやかなものに変更されている。政岡から変わって演じる猿之助のニンからすればこれは大正解か。

その変わった仁木弾正は意外にもあっさりと拍子抜け。これから千秋楽まで、また再演をつうじて猿之助の仁木がつくられていくのを楽しみにしたい。

しかし時間がないため「御殿」がサラサラとすすんできたというのに、つぎの早変わりへの時間稼ぎのためにネズミの立ち廻りをたっぷり見せられるにはなにかバランスの悪さを感じる。従来の『伊達の十役』のあのヴォリューム感のなかだからこそ許されていたつなぎなのかもしれない。

 

休憩をはさんで大詰は場面も八場、役も八役が入れ替わる超特急。澤瀉屋の『獨道中五十三驛』とおなじような早変わりショウを理屈抜きで堪能する。だが称賛されるべきは早変わりのテクニックではなく、どの役もひとつも違和感なく演じわける猿之助の歌舞伎役者としての技量そのものだ。ラストは鶴岡八幡宮で、先月の超特急『忠臣蔵』のはじまりをも思い出させる。切り口上がついて幕。

 

猿之助の政岡は『先代萩』であらためて観たいと思わせるものだったし、早変わりの面白さにとどまらない演じわけには脱帽した。だが、ほんとうにこのタイトな時間のなかで取りあげるべき企画だったのかは疑問だ。またこれが今後再演をかさねるだけの「新版」と銘打つべきものかどうかも意見がわかれるだろう。時間的な制約がなくなったところで、ぜひ本来のかたちでの『伊達の十役』に再度挑戦してもらいたいと心から願わずにはいられない。

 

 

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