黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

オペラ『箱』世界初演(サンパール荒川)

 

作・角直之、作曲・永井秀和のオペラ『箱』の初演を観た。きわめて古典的な構造と現代的な問題意識をあわせもった意欲的な作品の誕生に立ち会えたことに感謝。

 

過保護な兄・啓と盲目の姉・優の過保護なまでの世話によって、《箱》のなかでなかば監禁状態で育てられた妹・藍。そのあやうい均衡が、ある日外からやってきた男によってやぶられることでドラマが展開する。病的に過保護な保護者と、彼が育てる「箱入り娘」と、そして彼女の前にあらわれる未知なる外部の男というこの関係は、あまりにも有名なヴェルディのオペラ『リゴレット』を例にとるまでもなく、古今の演劇作品によくみられる典型的なものだ。その「箱入り娘」のものがたりと「パンドラの箱」のギリシャ神話のエピソードを《箱》というキーワードでかけあわせ、観念的な(そう、じつに観念的な)オペラにしたてあげたところが独特なところ。この「パンドラの箱」の有名な神話は、開けてはならない箱からさまざまな災いが世界にとびだしたのち、希望だけが最後に箱のなかにのこったというもの。今回のオペラではこののこされた希望とはなにかが繰り返し問われている。

《箱》はそのひとにとって世界が成立している限られた認識空間の象徴であり、またそれを成立させている論理の象徴でもある。藍が監禁されている《箱》の部屋のなかにはいくつもにちいさな《箱》がおかれているが、部屋のそとではひとつもかたちを保っているものはなく、その残骸ばかりだ。部屋のなかで成立していたものが、外では通用しないことが舞台装置でしめされる。ヴィトゲンシュタイン的に言えば世界を成立せしめているのは事態でありその論理であるが、それは言葉と言いかえることもできるだろう。わたしたちは「言葉はひとを傷つける」と慣用的に言うが、それは「自分の世界を成立させている論理が他者の世界を傷つける」ということだ。藍が兄を殺害するときに《箱》をもちいるが、なるほどと納得させられる演出だった。

《箱》はまた人間の自己認識の問題でもある。藍のアリアのなかで「わたしはわたしにとって、わたしと名づけられた箱でしかない」「箱のなかにはなにもない」「これまでもこれからもわたしの世界は箱のなか」と、いっけん矛盾にみちた言葉が繰り返される。だがここで提示されているのは、マトリョーシカのごとく終わることのないメタ構造としてしか自分自身を認識できない、わたしたち人間のありかたそのものだ。優は外部からやってきた男を信じて《箱》を出るが、そこにもまたいつづけることができなかった。わたしたちにできることは、藍のようにどこまでも《箱》の外へむかって走りつづけるか、優のように希望が残された(と信じている)ままに《箱》を閉じてしまうか、そのいずれかなのだ。

いまこのオペラがドイツで上演されたならば、移民受け入れによって内部の矛盾を露呈し崩壊しつつあるヨーロッパの寓話だと読まれただろう。雪のちらつくなかカーテンの向こう側から「助けてくれ」と声をあげる男の姿は、深刻な問題になっている難民の姿に見えたかもしれない。それに対応しきれないEUもまた、彼らの論理のみによって成立している《箱》にすぎないからである。またわたしたちの生活する現代日本においては、情報や富について持つべきものと持たざるべきものの格差問題としてとらえられることもできるだろう。「選ばれた者だけが知ることができる」というような意味の歌詞もあったと記憶する。わたしたちは閉ざされた箱のなかで盲目的に生かされている。おそらくどのような立場の観客もたちどまって考えざるを得ない普遍的なテーマがここには横たわっており、この作品が古典的な構造をもちながら現代的であるというのはそういう意味だ。考え抜かれた角の台本と演出には、おおいに拍手を送りたい。

 

音楽は表現主義的な20世紀のオペラの系譜の延長線上にありつつ、現代的なサウンドを聞かせる秀逸なもの。ときにはベルクの、ときには古典派の、またときにはプーランクのと、さまざまなスタイルの音楽を取り込んでいるのも興味深かった。終盤のクライマックスへいたる緊張感の持続は、音楽劇としてきわめてよくできている。湯川紘惠の指揮のもと、少人数のオーケストラがそのテクスチャをみごとに表現していた。

唯一残念だったのは歌唱パートにおける日本語のあつかいだ。日本語のイントネーションをことごとく裏切る旋律線や、無声音になるべき音節の安易な処理など、これでは歌詞が聞こえてくるはずもない。じっさい、はじめて耳にする観客にとっては、字幕なしでは半分の情報量しか伝わらないだろう。歌詞への意識の希薄さという、現代の日本語新作オペラの問題がここでも痛切に感じられた。聞き取れない歌詞なら、なぜ日本語を歌う必要があるというのだろうか。歌手にもそれは感じられ、ソリストの4人それぞれの日本語歌唱にたいするスタイルがバラバラなので、聴いていてなんども違和感を感じた。そのなかで、藍を演じた渡辺智美は中低音域の声量と言う意味ではものたりないところもあったが、役にふさわしい「空っぽ」さを見事に演じて好印象。優の福間章子のドラマティックな表現も耳にのこる。

 

これを言っては身もふたもないかもしれないが、やはり小劇場で上演されるべき作品なのではないかと思われた。200人程度のキャパの小空間で再演されるのをじっくり観てみたい。年末には映像配信もあるとのこと、室内オペラのあたらしいレパートリーになって再演をかさねられるよう、ぜひおおくのひとの目で観て考えてもらいたい作品だ。

 

 

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