黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

小田尚稔の演劇『レクイヱム』(SCOOL)

 

今年最後の観劇に、小田尚稔の演劇『レクイヱム』を選んだ。独特の発話法と劇作で濃密な世界をつくりあげる劇作家/演出家・小田尚稔の、またあらたな境地を垣間見るような、期待にたがわないよい舞台であった。

 

アクティングエリアの中央にはカーペットが敷かれ、その下手側にはベッドが、上手側には机と椅子が置かれている。小田演劇には欠かせないコート掛けは今回は2本になり、客席側の上手下手のコーナーに立っている。正面の白壁はホリゾント幕のように機能し、プロジェクターから映像が投影される。天井からは客席にスペース上方に3本の開かれた傘が逆さまに吊るされ、アクティングエリア上方にはコートを着せられた2体のマネキンがぶらさがる。このマネキンの両手と片足はそれぞれはずされ、床に転がされている。このマネキンのオブジェが、いわゆる「静かな演劇」の系譜に属ししている(いた)小田作品にしては、異例なほどエモーショナルな存在だ。

エモーショナルといえば、演技の内容もいつもにも増してエモーショナルだ。小田演劇といえば、テクストを分節ごとにていねいに、なかばはにかむように絞りだすセリフ術が独特だが、最近の作品ではすこしづつそのテイストが変わってきたのではないかと思う。今回の舞台も、内面が(かなり直接的に)にじみでる橋本和加子の語りや、妊娠にまつわる河原舞の切々としたセリフなどがとくに印象にのこる。

もちろんタイトルが『レクイヱム』なだけあって、いたるところに「死」というモティーフが散りばめられているせいもあるだろう。祖母の死、ペットの死、まだ生まれない子供の死、そして自分自身の死の可能性。もともとレクイエムとは、死者の魂が地獄の業火にさらされることなく永遠の平安を得られるように祈る、カトリックの鎮魂ミサであるが、ここで痛々しいまでに悼まれる数多くの「死」とは、いったいなんだったのか。

小田尚稔自身がどういう意図をもっていたかはわからない。だがこの舞台に転がっていたおびただしい「死」とは、このコロナウィルスに支配された2年間のあいだに生まれては消え、また生まれることもなく消えてしまった演劇の「死」のように思われてならなかった。繰り返し上演されつづけてきた古典も、稽古まで行いながら中止をせざるを得なかった作品も、また企画されていたのに書かれることさえなかった幻の新作も、ありとあらゆる演劇が無惨な「死」を遂げた。そして、おおくの演劇人や観客はいまだにその「死」を受けとめきれず、またいつやってくるかわからないあらたな「死」におびえて生きている。そのどうしようもない切実なありさまが、この舞台のむこうに透けて見えたのである。

わたしたちは「死」をのりこえられるのか。のりこえるためになにをすべきなのか。おそらくそれはあらたな命を生みだそうとすることなのかもしれない。自転車のペダルをこぐように、まだ慣れない車椅子の車輪をみずからの手でまわすように、車の輪を動かすことなのかもしれない。ふたたび前に歩みつづけることだけが、過ぎ去った「死」を鎮魂する。そんなメッセージを小田尚稔から感じたことが、ことさらこの舞台をエモーショナルなものにしていた。何年かしたのちまた再演されるおりには、どのような顔をこの作品は見せてくれるのだろうか。

 

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