黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

青年団『忠臣蔵・武士編』『忠臣蔵・OL編』(アトリエ春風舎)

 

平田オリザ作の異色な忠臣蔵が上演された。これまでも再演を重ねたさまざまなヴァージョンのうち、『忠臣蔵・武士編』『忠臣蔵・OL編』の同時上演である。日本人の意思決定の過程の切実な問題を、忠臣蔵の世界を借りてコミカルにえがいたこのシリーズ。いま上演することの意義もふくめ、見ごたえある舞台になっていた。

赤穂城にいる藩士のもとに、松の廊下の刃傷、またそれにつづく内匠頭の切腹などをつたえる早駕籠が到着する。城明け渡しか、籠城か、はたまた吉良家討ち入りかと、事後策を大石内蔵助はじめおもだった藩士たちが議論するという、一時間にもみたない凝縮したドラマである。どちらの作品も、基本となる台本のセリフは、言いまわしやちょっとした細部がかえられているほかはおなじもの。おなじセリフ、おなじ展開がまったくことなるシチュエーションでくりひろげられるという面白さは、もちろん両方くらべて観るのが面白い。もしはじめてこの作品(群)を観るならば、どちらをさきに観るかでその面白さもかわってくるだろうが、幾重にもしかけられたパロディとしての巧みさに、いずれにしても圧倒されるだろう。

 

わたしたちがいまこの作品を観るとき、コロナウィルスにたいしての「最適解」をもとめる意思決定の混乱ぶりをいやおうなく思い浮かべる。しかしそれは、利権としがらみにまみれた政治家たちの愚劣ともいうべき姿についてではない。こうすべきだという根拠のない妄信に似た意見をそれぞれが持ちながら、どこか他人事のようにそれを無責任にインターネット上でかわしあう一般大衆のそれである。

なにが正解なのかわからないままに、なにかを自分の意見として表明することを求められる時代。ひとむかし前は違っただろう。議論するものを批判し、風刺し、その文句をつまみに酒でも呑んでいればよかった。しかしいまはさまざまなSNSでなにかしらの意見を表明することを暗にもとめられ、専門的な知識も情報もないひとびとがヤフーニュースのコメント欄にもっともらしい自説を書き込む。以前であれば漠然として表に出てこなかったいわば無意識的に潜在していたものが、いまは完全に可視化されている。

批評家で哲学者の東浩紀はその昔「一般意志2.0」という著書のなかで、このようにインターネットによって可視化されるひとびとの無意識的な欲望が、ルソーが想定した「一般意思」を現代に現出させるのではないか、それによって民主主義の進化がもたらされるのではないかというような趣旨の希望的意見をのべた。だが実際にはそれはむずかしいだろう。インターネットに流れでたひとびとの声は、インターネットという「場」によって引き出され言わされたものであるからだ。熟議民主主義という、いまとなってはあまりにもナイーブな言葉もあった。しかしよく言われるように、議論のほとんどは「議論するために議論する」ことによって継続されている。赤穂藩士たちの不毛な議論も、評定という「場」が要請するままに言わされているものにすぎない。もちろん、もっともらしい根拠も、筋がとおっているように聞こえる論理も、すべてはその偶発的にこの世に出てしまった意見を正当化されるままに捏造されるものだ。

議論のすえに大石がふともらすひとことが、きわめて象徴的だ。われらは自分がなにものかをわかっていないと大石は言う。ひとは自分がなにものかわからないまま生きていかねばならない存在であるからこそ、なにをすべきかという目的もわからないままに議論をかさねなければならない。誰かが言った意見もじつはそのひとの意見だというわけではない。だから議論は不毛なものになる。いっけん古典的で既視感のあるセリフも、現代的な意味をいまだうしなっていない。

 

いずれの舞台も青年団らしい緻密さと、思いのほかの熱量にみちている。「武士編」では、大石内蔵助を演じる永井秀樹のみごとな芝居がさすがに一日の長。飄々とした現代的な大石でありながら、その場の芯としての存在感がさすがである。「OL編」では本田けいの巧みさが印象に残る。両方の舞台をつうじて久保田役を西風生子が演じているが、「武士編」では男たちのなかに混じって独特のアクセントになっている半面、「OL編」ではおなじ役なのに印象がうすくなる(悪い意味ではない)のが面白い。

 

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