黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

二月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

二月歌舞伎座の第一部は『元禄忠臣蔵』のなかでも屈指の名作「御浜御殿綱豊卿」である。この演目はいまでは片岡仁左衛門が傑出しているが、今月の中村梅玉の演じる綱豊卿は、仁左衛門のそれとはまったくことなるもうひとつの規範とも言うべきもので、中村梅玉の歌舞伎役者人生を代表すると言っても過言ではない名演である。

 

仁左衛門の演じる綱豊はそのセリフが流麗であり、真山青果の書いた言葉がまるでオペラのアリアのように響きわたるのに身をまかせる陶酔がある。それは仁左衛門ならではのドラマにたいする深い洞察からくるものだが、おそらく仁左衛門のほかだれひとり真似のできない仁左衛門だけの完成された芸だと言えるだろう。梅玉のセリフは華麗ではない。流れるような陶酔もない。真山節とも言うべき独特のセリフまわしも、たしかにツボはおさえられていながらむしろ自然である。その自然さは、しばらく前に『忠臣蔵』の「七段目」で見せたあの平右衛門につうじるものがある。

たとえば序幕でほろ酔いでいた綱豊が、「喜世の兄と言えば」と調子がいつのまにかかわっていくうまさは、ほとんど名人芸といってよい。綱豊がなににたいして関心があるのか、じわりと観客に気付かせることに成功している。もうひとつ例をあげれば、御座所において大石内蔵助の手落ちを指摘する場面だ。これは大石が一方で浅野家再興を公儀へ願い出ながら、また他方では仇討ちを企図するということの矛盾と、その板挟みになっていることを指摘するものだ。ここはだれの綱豊であっても理屈めいてしまい、それによって浅野浪人を糾弾するように聞こえるのだが、梅玉はあえてそれを強調しない。そのことによって、大詰でもういちどそのことについて言及する場面が生きることになり、そこへいたって助右衛門とともに観客は納得できる。そのきわめて自然なセリフのつらなりのなかに、戯曲そのものがもつドラマの構造がおのずから明確に浮かびあがる。そこが現代の規範と言ったところである。

なんといってもこの綱豊は、大家の殿様としての鷹揚さと風情が第一である。もちろん綱豊は新井白石をそばにおき、学問にも熱心な知性ある君主であることは間違いない。だが理屈よりもまずは直感的に武士道というセンチメントを優先する人物でもあり、梅玉の綱豊はそれがよく出ている。助右衛門にむかって言う「討たせたいのう」は、計算ではなく思わずもれた言葉なのだ。御座所の最後で敷居をまたいできた助右衛門と対峙するその緊迫感あふれる姿は、それだけで説明も必要ないほど圧倒的だ。

 

たいする尾上松緑の助右衛門も力演である。ほとんどセリフ劇だと言ってもよいこの作品だが、言葉の発しかたひとつひとつまでていねいに練られて明瞭だ。もちろん技術的にたくみな役者ではないので、あまりに全力投球過ぎてポイントがかえって不明瞭になるところもあるし、いたるところで不器用さがめだつのはたしか。だがかえってそれが、助右衛門がみずから「粗忽者」という実直な人物像をつくりだして好感が持てる。御座所でのクライマックスは、いまの松緑のもっているすべてを投げだして振り切れているのがわかる。その狂気にも似た姿は、まさに助右衛門のそれにかさなってこれまた見るものを感動させる。これこそが尾上松緑という役者の、代えがたい存在価値である。

お喜世は中村莟玉。序幕でのしっかしとした芝居がよく、可憐さもあって初役とは思えないはまり具合。中村魁春の江島は、以前よりカドがとれて柔らかくなったように感じる。お喜世を詰問する浦尾は中村歌女之丞で、これが手強さと上臈としての風格を併せ持っているのがよい。お喜世にたいしても、ことさらにいじめているように見えないのも納得の演じ方だ。新井白石は中村東蔵。あいかわらずあの歳になって初役に挑戦させられてばかりで気の毒だが、セリフの組み立てがさすがでうまい。なにより、梅玉、魁春とともに故・歌右衛門の演者がつどってこれほどの見ごたえある舞台をつくっているのが感慨深い。

 

 

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