黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

 

三月歌舞伎座の第二部は『河内山』と『芝浜』の二本立て。

 

『河内山』を片岡仁左衛門が東京で演じるのは、平成二十四年の新橋演舞場での勘九郎襲名興行以来ということで、じつに十年ぶり。河内山の演じかたにはおおきくわけて愛嬌で見せる型と、悪の凄みをきかせる硬派な型とのふたつの系統がある。前者は白鸚や二世吉右衛門をはじめ現代のおおくの役者が見せる型であり、後者は九世三津五郎がそれにちかい豪胆な河内山を演じたのがわずかな例として記憶にのこる。しかし仁左衛門の河内山はそのどちらともことなっている。セリフや演じる内容はほとんどおなじであっても、その役の性根がほかのだれともちがう、独特できわめて演劇的な完成度の高いものである。

仁左衛門の河内山の特徴のひとつめは、権力者にたいするその絶対的な反骨精神である。弱気を助け強きをくじく義侠心などという言葉では言いあらわせないほどの、根源的な権力者への反抗心が見え隠れする。上州屋の娘が理不尽な仕打ちをうけていると聞いたときの、大名の横暴にたいして突如として起こす憤りは、ほとんど生理的なものだと言ってよい。和泉屋清兵衛から前金を受け取ったあとも、けっして金のためではなく、かといって正義のためでもなく、河内山本人にもよくわかっていない使命感のようなものに駆りたてられているようにも見える。この作品を上演するにあたって、おおおくの河内山役者が「松江候屋敷だけでなく上州屋店先から上演したい」と言う。そのほうがものがたりの発端がわかりやすいからというのがその理由である。しかし今回の上州屋の場が上演された最大の意義は、河内山がなぜ松江候の屋敷に乗り込むのか、その人物の性根にかかわる部分が明確になるというところにあった。

ふたつめの特徴は、この河内山は「自分の計画がかならず成功する」という確信を、かならずしもいだいていないことにある。そもそも娘救出を請け負って上州屋をあとにした段階で、この河内山は明確なプランを持っていない。それどころか、引き受けたはいいものの、どうすればよいだろうかと本気で思い悩んでいるように見える。それは白鸚や吉右衛門らの演じる河内山が「さてどう料理してやろうか」と頭をひねって考えているのとは次元がちがう。仁左衛門は花道の七三までくると文字どおり「頭をかかえて」悩んだのちに、イキひとつで揚幕のほうを見てあっと計画を思いつく。このあたりのリアルで人間的なところが、仁左衛門らしい独特なところだ。

松江邸の座敷となり、上野寛永寺からの使僧に化けた河内山が松江候に談判する。上野の親王の威光によって腰元・波路を取り戻そうとするが、松江候はこれをきっぱりと断る。仁左衛門が面白いのは、この拒絶をうけて「こまったな」と意外そうな顔を見せることである。計画の第一弾がうまくいかないならば、つぎの手を考えなければならない。波路にたいする松江候のふるまいを出るところへ出てあきらかにするという脅しをかけると、ようやく松江候も波路解放を承諾する。「そりゃご承引くださるか」という言葉も、この河内山はほんとうにほっとしているのだろうと思わせる。気分が悪いならさっさと「奥でご休息」なされよというセリフは、たとえば吉右衛門ならばすべてこうなることを予期していたからこその余裕の嫌味になるわけだが、そのネチネチと手玉に取っていく愛嬌さえここには皆無である。進物の小判をそっと見ようとして時計の音にびくついて手をとめる場面は、誰がやっても豪胆な河内山には似つかわしくない演出だが、仁左衛門の河内山を見ていると、さもありなんと納得する。本当に最後まで計画がうまくいくかどうかわからないサスペンスがこの場にあるからだ。

見せ場となる玄関先の場もおなじである。正面の襖が開いてあらわれた河内山の姿からは、騙りが露見するまえに退散しようという緊張感が失われていない。北村大膳が「しばらく」と引き留めに出てきたとき、この河内山はあきらかにどきりとしている。なにも表情にあらわさないのに肚ひとつでそれを演じきる見事さには脱帽しかない。正体が暴かれて言う「悪に強きは善にもと」の有名なセリフは、もはや開き直ったものの高笑いだろう。幕末の世に生きる反骨精神にあふれた男の内面に、見るものがなまの手でふれる瞬間である。こうなったからには、無事に帰れるなどという確信はどこにもないない。ないからこそ、そこへ現れた家老・高木小左衛門の使僧としてそのまま帰院してほしいという提案に本気で驚くのだ。小左衛門を演じる中村歌六とのイキもぴったりで、目と目をあわせながら、言葉のうらに隠された本心を探りあう。小左衛門の真意を理解してはじめて、仕事を無事にやりとげた安心感にみたされる河内山。こんなに見つめあう河内山と小左衛門は見たことがない。

権力者への絶対的な反骨心。そして最後の場面にいたるまで解消されないサスペンス。花道から本舞台の北村大膳(と見せてじつは松江候)へむけて放たれる「馬鹿め」のひとことは、そのふたつが幕切れにいたってひとつにむすびついた瞬間である。ここへきてはじめて観客は溜飲が下がる。仁左衛門らしいその人間的なリアリティが、このしばしば上演される古典に、現代的なドラマの面白さをつけくわえたといっても言いすぎではないだろう。

松江候は中村鴈治郎。短気で屈折した大名にふさわしい役作りが見事。声のつかいかたにもますます幅が出て、たとえば「使僧に会うは、面倒だ」などもじつに爽快だ。中村歌六の高木小左衛門がセリフが明晰なことこのうえなく、前述のように仁左衛門のつくりあげるドラマを見事にサポートしている。北村大膳を演じる中村吉之丞は、その豪快にひびく声といい、凄みの効いた顔といい、亡くなった師匠・吉右衛門にそっくり。こちらも仁左衛門の芝居にあわせて道化役になりすぎないのがよい。宮崎数馬は市川高麗蔵。浪路は片岡千之助。坂東秀調の後家・おまき、河原崎権十郎の和泉屋清兵衛にいたるまで、バランスよくそろった素晴らしい一幕。

 

『芝浜革財布』は尾上菊五郎でなんども観ているような気がしていたが、こちらも十六年ぶりの政五郎。よい意味でちからの抜けた菊五郎の芝居が心地よく、ことに酒盛りの場面での市川左團次、権十郎、彦三郎、橘太郎らとの会話は類を見ないほどに自然。とくに彦三郎の達者なセリフを聞いていると、次世代にもこのリズム感が継承されていくのかなどど思われた。

傑出しているのは中村時蔵の演じる女房おたつ。帰宅した政五郎をむかえての最初の場面はサラサラしすぎているようにも思えたが、昼寝から目覚めた政五郎とのやりとりの充実ぶりはさすが。亭主を騙しているという罪悪感が、その言動のはしばしに見え隠れして感動的ですらある。

この『芝浜革財布』は、本家である落語においても場割りやセリフにいくつものヴァージョンがある。歌舞伎でも台本によっていくつかの相違があるが、いずれの台本によっても暗転による場面転換がおおすぎて芝居としての求心力を欠く。落語とちがって演者のひとことで場面をかえることができない以上、もっと舞台上演にふさわしく思いきって整理されたらと思うのだがどうだろうか。

もうひとつだけ忘れずにつけくわえなければならないのは、丁稚の長吉を演じた寺嶋眞秀。歌舞伎好きの子供という役柄、大サービスで弁天小僧から新三、お嬢吉三にいたるまで名台詞のオンパレード。なかなか立派な名調子、将来音羽屋のレパートリーを継承していくという頼もしい意思表示として受け取った。

 

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