黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

四月大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

 

四月の歌舞伎座は、桜の季節にふさわしい演目がならんだ。第二部は松本幸四郎による二度目の『荒川の佐吉』と、きわめてめずらしい所作事『時鳥花有里』の二本立て。

 

『荒川の佐吉』はいうまでもなく真山青果の代表作のひとつ。真山青果の歌舞伎はどれをとってもセリフに独特のリズムがあり、歌舞伎役者のみが再現できるともいえるその抑揚が聞きどころである。

幸四郎は染五郎時代にいちど佐吉を演じており、今月は数年ぶりの再演。近年では猿翁、仁左衛門、勘三郎そして当代の猿之助が手掛けているが、ニンという意味では幸四郎がいちばんぴったりあっているように思われる。そして、数年前の初役にくらべて役の内面的な部分がつながって、これからしばらくは『荒川の佐吉』といえば幸四郎というほど充実している。ことに両国橋の家の場では、鍾馗の一家をたばねる風格もあり、また緩急自在なセリフが聞くものを泣かせる。向島の別れの場面では、いわゆる股旅物の典型になることなく、ひとりの情あつき若者としての佐吉の姿を見せて現代の演劇としてきちんと成立させている。

問題はそこへいたるまでの前半。ものがたりをとおして佐吉の成長をみせようとしすぎるせいか、若さを勢いで表現しようとして空回りしている。勢いにまかせて早口でまくしたてるのは世話物を演じるときの幸四郎の悪い癖だが、それが真山青果のセリフになっていないどころか、聞き取ることさえ困難な箇所がいくらもある。よわい声帯をもって生まれ声に恵まれないのはしかたがないとしても、それをカヴァーするセリフの技術はていねいに工夫してほしいと思う。そもそもこの役を初演で演じた十五代目羽左衛門にしてもけっして聞きほれるような美声ではなく、あの独特の技術で名調子に聞きかせていたわけだから。

絶賛すべきは片岡孝太郎演じるお八重。すでになんども手掛けた役だが、前回までよりもさらに完成度が高い。お八重は娘役でもなく、かといって女房役ともことなるなかなかむずかしい役。ここのところ時代物の大役で好演をかさねる孝太郎、こういう世話の若い役でも深化しているのが見事。嫌味にならない高慢さを繊細に見せ、それでいながら青果劇のスタイルを感じさせるセリフ。伝統的な様式と現代性の融合という、父・仁左衛門とおなじポリシーに立脚した傑作だ。

尾上右近の辰五郎はまだ若いが、初役のていねいさ以上にセリフのリズムにたいするセンスを感じさせて好演。中村梅玉の成川郷右衛門は、さすがにさらさらしすぎか。お静に初役の中村魁春。松本白鸚が政五郎はさすがの貫禄で、とくに佐吉との出会いの場は『鈴ヶ森』の長兵衛のごとく立派。

 

『時鳥花有里』は江戸時代には『義経千本桜』の所作事として演じられていたこともあるらしいが、六年前に今月とおなじく中村梅玉の義経で復活上演された珍品。面白いのは傀儡師(中村又五郎)が平の知盛の亡霊に扮する場面。能の『船弁慶』の後ジテの面をつけて登場し、悲壮に舞うかと思わせ飄々と踊るギャップ。そしてそこに巻き込まれる義経に壇ノ浦の合戦の模様を思い出させるという、演劇的な二重性がなかなか秀逸な趣向である。

 

 

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