青年団の代表作であり、おそらく平田オリザの書いた戯曲のなかでも一、二をあらそうであろう名作『S高原から』をひさしぶりに観た。東京公演としてはまだ三日目だが、さすがのすてきな完成度。
この作品の魅力はいくつもあるが、なんといってもさまざまな時間が舞台のうえで「重なりあっている」そのさまにある。療養所に生きるものたちの時間と、下界にながれる時間。死ぬことを知って生きる時間と、知らずに生きる時間。通じあっていると信じている男の時間と、破綻を知っている女の時間。そして、横たわる男の身体がまとっている、彼が生きている時間と、死んでいる時間。それらの時間が舞台という空間のなかで二重に重なりながら共存しているその不思議な体験は、まさにこれこそ演劇であると言ってもよいものだ。
いまの日本は、この『S高原から』が初演されたときよりも明確に終わりへの歩みをすすめていると言ってよいだろう。不可思議なバブル経済がはじけるまえに作られた作品が、「終わりの兆し」や「終わりのはじまり」の時代に再演をかさね、いまなおリアリティをうしなわずにいる。遠くない将来に死をむかえることを、ぼんやりとした確信のもとに受けいれて生きている療養所の患者たち。それはまさにいまのわたしたちにそのまま重なるだろう。共有できない時間を生きる「外部」であるものたちと、それでもひとつの場所を共有しながら重なりあって生きていかなければならない現代にあって、この作品が考えさせることはおおい。
メインとなる西島役の吉田庸と村西役の木村巴秋のふたりの男性役がいずれも好演。きわめて重要な役割を演じる福島役の中藤奨は、その登場からしてセリフがじつに自然で引き込まれた。1994年の再演から観ているが、個々の俳優の演技のスタイルの多様化を、いろいろな意味で今回あらためて感じた。舞台装置が時代にあわせて変化しているのも面白い。再演されるうちに、だんだんそれが抽象から具象になっていくのも。また遠くない将来に再演を観たい。
ひとつ気になったのは、幕切れのフェイドアウトはあんなに素っ気なかったものだったか。そのわりには舞台上に残った「それ」にあてた照明だけワンテンポ遅らせてアウトするという作為も見せる。もうひと呼吸その時間を共有したかったという気もする。