黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

四月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

歌舞伎座の第一部は、映画やドラマ、舞台などでもおおくの作品が作られてきた天一坊のものがたり。休憩をのぞいて約二時間、通し狂言としては短めではあるがなかなかちょうどよい構成で楽しめる。ここしばらく猿之助はいくつもの作品において、三部制の制約された時間にあわせてカット版を上演している。それらのなかでも、この『天一坊大岡政談』はもっともスッキリうまくいっているのではないだろうか。

 

幕が開いてすぐに出る坂東新悟演じるお霜と坂東巳之助の久助がよい。新悟は古典的なセリフを繊細に組みたてながら、つややかな声が現代的な美しさを見せている。巳之助はセリフの間とテンポがまきれもなく模範的な世話物のそれであり、このふたりの会話で見物はあっというまに古典歌舞伎の世界へ引き込まれていく。ついでに言えば、つづく加太浦の場でのふたりのやりとりも息があう。巳之助は数年前までは役のツボをとらえた熱演はすれどどこか不器用な役者という印象があったが、なかなかどうして高い技術を感じさせるセリフを聞かせるようになって驚く。何年か前に演じて感動的だった又平や平右衛門などの再演をいまこそ観たいし、これはなかなか実現はむずかしいかもしれないが、『籠釣瓶』の次郎左衛門にもっともふさわしいのは近い将来ではこのひとではないかと思わせた。

猿之助演じる法澤/天一坊は、まずはどこにでもいるひとの良い坊主に見えるのがよい。それがお三婆の述懐を聞いているうちに、なにがきっかけといえわけでもなくしだいに悪事に手を染めていく、きわめてシームレスな過程が自然に見えてよい。ごく平凡な男が、良心の呵責を感じることも、だいそれたことをしているというおそれもなく、積極的に悪の道を進んでいく。根本的に性根が悪なのでもなく、因果ゆえに運命に巻き込まれていくのでもない。そういった古典的な歌舞伎の世界観とはいささかことなる現代的な恐ろしさがこの天一坊にはある。そもそも悪の道にはまっていくきっかけがあいまいな台本ではあるが、猿之助の演じかたがその弱点をみごとにカヴァーしているとも言える。だからこそ大詰で「大岡様にはかなわねぇ」と開き直ってうそぶくのも納得する。全体的にその芝居も猿之助らしく細部までねられている。見送りの百姓たちの後ろ姿にていねいに礼を言ったかと思えば、間髪入れず「これでやっと邪魔ははらった」と素にかえる現代的な笑いのリズムのたくみさ。仲間に招待を明かして「じつはおれは偽物だ」と世話にくだけるうまさ。別格にはまり役だと言える。

市川笑三郎のお三婆がうまい。のちのものがたりにかかわる重要な情報をさりげなく強調しながら、それを不自然に感じさせないのはさすがの技術。

山内伊賀亮は片岡愛之助。セリフがていねいで、大岡越前守とのいわゆる「網代問答」もさすがの大岡様もたじろぐほどのリズム感がよい。計算高い参謀役らしく見える。ただし声をつくりすぎているせいか表現が内へこもりがちで、この役のもつ不敵さというところて物足りなさも感じる。

なかなかのあざやかさで唸らせるのが大岡越前守の尾上松緑。いっけんすると『先代萩』の細川勝元と似たような裁き役と思われがちだが、あちらが圧倒的に高い立場から超越的に裁きを下すのにたいして、この大岡越前守はもしかすると本当に将軍のご落胤かもしれない人物にたいし、みずからの命を懸けて詮議をするという緊張感がある。奉行所書院の場での松緑は、それがきわめて明確にみえる。その根幹があるため、証拠の品である書付や短刀(これらもそもそも偽物であるという解釈も可能だ)を吟味するのも謙虚なていねいさがあってよい。楷書できっぱりとしたセリフも聴きごたえがあり、場を支配する。ただし奥の間の場はその力強いセリフがかえって弱点となり、空回りして聞こえる。詮議の場を「公」とすれば、この切腹(未遂)の場面は越前守の「私」だ。切腹にあたって妻子三人がならんでいることからも、それはあきらかだろう。前場同様の調子とはちがったこの場にふさわしいトーンが手に入れられれば、よりすばらしい越前守になりそうだ思われた。

 

 

 

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