黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

團菊祭五月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

目が覚めるようなといういう言葉がふさわしい、あざやかで若々しい『白波五人男』が見もの。尾上右近の弁天小僧と坂東巳之助の南郷力丸をはじめとして、この作品の次世代のあらたな可能性をも感じさせる充実ぶりに満足した。

 

いうまでもなくこの作品は音羽屋・尾上菊五郎家のお家芸。初演をした五代目菊五郎、それを受けついだ六代目菊五郎はもちろんのこと、昭和においては七代目梅幸が、平成の世においては現当主・七代目菊五郎が、それぞれの時代においての『白波五人男』のかたちをつくりあげてきた。令和の世にあっては、もちろん尾上菊之助がそれを継承しており、彼の手で今後も上演を重ねていくだろう。ただあえていうとすれば、菊之助のそれは父・菊五郎のスタイルをより現代的に洗練してそのまま受けついだものである。ひとつの作品が時代を超えて命脈を保っていくためには、その時代とともにかわっていく部分もすくなからず必要だ。菊之助の弁天小僧は規範的であり、どうじに保守的であるとも言える。菊之助の芸風からいえば年齢を重ねていけばもっとその味わいは深まっていくだろうし、それこそ歌舞伎の醍醐味だろう。また、菊之助がスタンダードとしての『白波五人男』を演じるからこそ、海老蔵や猿之助といったことなるスタイルの弁天を楽しむことができる。

しかし右近と巳之助のふたりは、伝統的な音羽屋の演じかたを最大限に尊重しながらも、つぎの世代にふさわしいあたらしいスタンダードを見せてくれたように思われた。このふたりに共通しているのは、この古典的作品をあくまで現代の演劇としてとらえているということだ。セリフや演出がかわるわけでもないのに、まるでその場で言葉が生まれているのを目にしているかのような新鮮さがあるのはそのためだ。若手にはありがちなことだが、現代的な感覚を重視するあまりリアルにくずれすぎスタイルが崩壊してしまうといった愚はここにはない。いったん自分たちの感覚で飲みこんだセリフに、きちんと歌舞伎の世話物としてのフォームをあたえて成功しているからだ。ここがきわめて優秀で、次世代のスタンダードになりうるというところである。

右近は女形を中心にこれまでやってきているが、この弁天小僧のような中性的な役のほうがあっているだろう。その地声のよさやセリフのリズム感のよさがより生きるからだ。つい先月上演された『荒川の佐吉』の辰五郎役で女形ではない役での右近のよさにおどろいたばかりだが、予想以上の上出来である。地声のよさというのは、たんに発せられる声が美しいということではない。ことさら「つくらない」声をつかえるというのは、それだけ自然な地の芝居がのりやすいということにつながる。弁天小僧が女装を見破られ正体を明かしてからの世話にくだけたセリフのつらなりに、わたしたちは古典作品だということを忘れてのせられていく。それでいて古典としてのリズムを失わないことを両立させている見事さは前述のとおりである。もちろん違和感もいくつかあり、有名な名乗りにおいて、助詞の前を半間空けて区切ったりするのはやはり不自然。時代にうたいあげるべきセリフは、そのリズムとフレーズを損なわないほうが心地よい。

巳之助のこの数年での躍進ぶりには驚かされるばかりだが、この南郷力丸も右近の弁天に一歩も引けを取らない完成度。とくに正体を隠した前半部分が傑作で、おおいに時代に振りきったそのスタイルが見事。それでいて型を型とも思わせないのはそれらが洗練されているからだろう。ぜひ巳之助に時代物の大役で活躍してほしい。はっとさせられたのは弁天につづいての有名なセリフ。「船足重き凶状に、昨日は東今日は西」ではだれがやっても不自然になりがちな「昨日は東」のあとの切り替えがうまい。「居所定めぬ南郷力丸、面ぁ見知ってもらいてぇ」にいたっては、このひとことだけで南郷という人物の豪快さに隠れた影の部分を(ほとんどわからない程度に)感じさせることに成功している。このような深みのある南郷を、これまで見たことはない。

 

日本駄右衛門は坂東彦三郎。祖父を思わせる古典的な堂々とした駄右衛門だが、彦三郎の最大の持ち味である朗々と響きわたる大音声を最大限に生かし、盗賊の頭としてのスケールがおおきい。うまいと思わせたのは、浜松屋の奥からわずかにあけた襖越しに弁天南郷の強請を覗き見ている立ち姿。半身傾けて覗いているそれがじつによい。中村隼人の忠信利平、中村米吉の赤星十三郎もふくめて、稲瀬川の名乗りが五人とも充実。

坂東橘三郎の番頭以下手代たちは、主役たちのテイストにひきずられたのかリアルすぎてアンサンブルになっていない。橘三郎がリズムをくずせば、それにつづく手代たちの「やあ、やあ、やあ」もテンポが悪くなる。宗之助を演じる中村福之助もそうで、これらの役はリアルな芝居運びよりもあくまで「記号」としての存在を優先しなければ、かえって滑稽である。鳶頭の中村橋之助はまだ若すぎるだろうがきっぱりとしていて好感が持てる。