黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

六月の歌舞伎座第三部は、はじめは片岡仁左衛門と坂東玉三郎による『与話情浮名横櫛』が予定されていたが、チケット発売の段になって仁左衛門の休演が発表され、演目そのものが『ふるあめりかに袖はぬらさじ』に変更になった。演目そのものが一部のチケットが発売されてから変わり、また出演者の大半も入れ替わるということはなかなかめずらしいことだが、結果的に意義ある舞台になった。

意義あるというのは、まずは先行きのけっして明るくない劇団新派が、歌舞伎座の舞台で活躍できたこと。そしてもうひとつは、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の現代性が明確になったことである。

この作品の現代性とは、けっしてひとつに限らない。異国人豪商の相手をするために見世に出たところを好いた相手に見られた遊女・亀遊が、それを恥じて自殺する。その死がいつのまにか「攘夷の志の象徴」として語られ、亀遊の死の第一発見者であった芸者・お園によって成り行きまかせに脚色され語り継がれていく。よく言われるように、言い伝えられる英雄譚や伝説が、いかにのちの語り手によって尾ひれがつけられ捏造されたものかという問題提起は、おおきなテーマだろう。報道の欺瞞、インターネット環境における変容する情報伝播といったものを考えるとき、それはいまなお新鮮な価値を失わない。

しかしそれ以上に『ふるあめりかに袖はぬらさじ』がしめしているのは、どこまでが事実で、どこまでが虚構なのかというその境界線が、当事者たちにとってさえもきわめてあいまいで、けっして明確でスタティックなものではないということである。自分が知り得た事実に直面し、記憶のなかのデータベースにアクセスするたびに、そしてそれをだれかに話して聞かせるたびに、意図するものも意図しないものもふくめていくつものずれが生じていく。そしていつのまにかそれは語り手の都合によって知らず知らずのうちに「上書き」されていくことさえあるのだ。「語り手」は「騙り手」であるという現代文芸論的なテーマがそこにはある。玉三郎の演じるお園がすばらしいのは、このあいまいさ、そこから透けて見えるいくつもの可能性を重ね合わせて見せているからである。

 

その玉三郎も序幕のうちはリアルなセリフがいささかテンポが悪く、芝居も嚙み合わないのが残念。しかし後半になるにつれ、このお園の空虚さが玉三郎ならではの美しさとなって輝きはじめる。お園は客の残した酒を片っ端から吞んでいく。観客は笑ってしまっているが、これはお園が無類の酒好きだから呑んでいるのではない。吞まずにはいられない理由があるからなのだ。亀遊の死の真実を脚色し、みずからの口で語っているうちに、だんだん自分の記憶さえもあいまいになっていく。記憶への不信は、みずからの存在への不信である。なにがほんとうで、なにがうそなのか。その襲いかかってくる混濁したなにものかへの静かな恐怖が、玉三郎のその姿から見えてくるというのは言いすぎだろうか。

あえて穿って考えてみることもできる。お園は亀遊の自殺の第一発見者だが、ほんとうに彼女が亀遊の部屋に行ったときに亀遊はこと切れていたのか。お園は本来は異国人から身請けされることが決まったことを伝えに行ったわけだが、もしかしたらお園が部屋を訪れたとき、まだ亀遊は生きていたのではないか。亀遊はお園の口から、身請けの話を聞かされたのではないか。そしてお園の見ているその前で、剃刀を手に命を絶ったのではないか。みずからの言葉がひとりの遊女が死を選ぶきっかけになったとしたら。そのけっして直視することのできない記憶は改竄され、別のものがたりが騙られる。この作品のテーマである騙りの問題が、じつは二重三重になっていたとも考えられなくはない。そのようなものがたりを想像することさえ不可能ではなく、そしてその可能性を身にまとった美しいまでのあいまいさが、あの幕切れの玉三郎のシルエットをこのうえなく魅力あるものにしている。

そのほかでは亀遊の想い人・藤吉を演じる中村福之助がなかなかの好演。すっきりとしたセリフは聞いていてこのうえなくクリアで、過剰な芝居をいっさい排してていねいに演じているのも好感が持てる。亀遊への想いと医術への志のバランスもよくとれている。橋之助とはまたちがった魅力と個性のある役者に育ちつつあるのがうれしい。欲を言えば、座敷で遊女姿の亀遊を見たときに、いささか肚がうすく見えるのが残念。そのショックは観客にはもちろんだが、なにより亀遊に伝わらなければならないだろう。それがあるからこそ亀遊も恥とショックで死を選ぶことにつながるわけで、亀遊役の河合雪之丞とともに不明瞭。

 

何年か前に中村壱太郎が『瀧の白糸』を出してなかなか見応えがあったが、歌舞伎役者によってこういったレパートリーが上演されていくことも面白い。いまはまだ玉三郎の専売特許のようになっているが、次世代の役者にもぜひ受けつがれていけばと思う。