黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

七月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

『當世流小栗判官』のひさびさの上演。

上演時間の長い通し狂言を三部制の枠にあわせて刈り込む市川猿之助の試みも、これで何作品目になるだろうか。人気の高い小栗判官を短くカットすることには勇気もアイディアも必要だっただろうが、結果的にすっきりとまとまったヴァージョンができあがった。いささかドラマとしての深みにかけるとはいえ、ここを見どころにというポイントがしぼられており、気軽に観ることのできるレパートリーに定着させようという意気込みは買う。

演出の石川耕士自身も語っているように、コロナ時代の短縮版ということではなく、今後の上演のベースとなっていくのかもしれない。時代にあわせてそれこそ「當世流」にかたちをかえていくのはよいことだ。ただ再検討されるべき場もある。


序幕は横山大膳の館から。発端である鶴岡八幡宮の場がカットされたこともあって、馬乗りのほかはこれといった見せ場がない軽い場になってしまっているが、猿之助の小栗判官がすっきりかつ堂々としていてよい。市川喜猿演じる三千助がセリフ、芝居ともにきっぱりとして好演。
横山大膳は市川猿弥、次郎は市川青虎、三郎は男寅の安定した三人。青虎は声がよくとおりセリフもきっぱりしていてよいが、大膳や小栗がセリフを言うのを直に見て聞くのが目について疑問。本来対面している人物が客席へ向かって開いて座っているのは時代物の約束ごとであり、リアルに発話者を(ときには後ろを向いて)振り返って聞くのは様式が根本的にことなり浮いている。


二幕目は浪七住家の場から浜辺まで。役者としての猿之助の魅力は、小栗判官ではなくこの場の主役・浪七(猿之助二役)でたっぷり堪能できる。まだ初日だというのに(いや、初日だからこそか)はちきれんばかりの熱演。ここまで振り切れた猿之助を舞台でひさびさに見たように思う。もちろん勢いだけでなく、『千本桜』の知盛を思わせるこの役にふさわしい恰幅のよいどっしりとした落ち着きといい、目を閉じて茶番を聞くその姿からたちのぼる思慮深さといい、じつによい浪七である。市川門之助の演じる女房お藤も、さすがの本役ともいうべき手慣れた好演。
この場でのもうひとつの見どころは橋蔵を演じる坂東巳之助。このところどっしりとした役からリアルな世話の役までみごとに演じわけて好演のつづいている巳之助だが、コメディア・デラルテたるこういった軽妙な役においても驚くべき出来を見せる。いくつもの捨て台詞や楽屋落ちのギャクなど、一歩間違えればかんたんに崩れかねないところを、よいテンポでたくみに運んでいる。こういったタイプの役で亡き十八代目勘三郎は天性のセンスで笑わせてくれたが、巳之助はそれを計算された技術で笑わせる。この若き役者はどこまでウデをあげていくのだろう。


つぎの場は、そもそもの台本に問題がある。この前にあった場がカットされている(このカットは今回にかぎったことではないが)ために、ただたんに出来事の羅列に終始する慌ただしい芝居になってしまっているからだ。お駒(尾上右近)と小栗との関係があまりに唐突で、殺されたお駒かこの場の最後に亡霊となって小栗に取り憑く一連のながれがただの怪談物の「お約束」になっている。また、前の幕で逃げのびた照手姫が女中になっているかと思えば、あっというまに正体をあかして小栗と結ばれるというしらけるほどのトントン拍子。猿之助の小栗も、もともとしどころのすくない場面だけに、とくに見せ場もなく思慮のない人物に見える。本来であれば全体でいちばんドラマがうごめくはずの幕なのだが、あらすじをとおしただけと言われかねない。もうひとつていねいに台本を整理されるべきところだろう。
つづく道行きでは、旅女房を演じる市川寿猿が年齢を感じさせないていねいな姿を見せて見もの。遊行上人は中村歌六。その弟子の小坊主に寺島眞秀。道行きの最後はいつものように小栗と照手姫の馬にまたがっての宙乗りで入っていく。大詰に横山親子に天誅をくらわせ、切口上があって幕。


長い作品を2時間程度に刈り込んでいく作業は、今後もっと増えていくだろう。あらたな客層の確保というだけではなく、現代のドラマとしてほんとうに楽しめるものへリメイクしていくことは、歌舞伎というジャンルそのものの活性化につながる。そういう意味では、猿之助はもっとも意識的に令和の時代にふさわしいコンテンツを作りつづけている役者であると言える。
だが、あたらしい版をつくっていくうえで大胆なカットもきわめて大事だが、逆にしっかりとドラマを作り込んでいくこともたいせつだ。「寺子屋」や「熊谷陣屋」がいまだにメインレパートリーとして感動を呼ぶのは、その時代の感性に訴えるべく積みかさねられてきた先人たちの型の工夫の結果にほかならない。その型には、観るわたしたちが想像力を膨らませるだけの間がたくさん存在する。それが人間の心理ドラマという近代以降の演劇では無視することのできない要素をかたちづくっている。

猿之助には、ぜひ今後もその先頭にたって走りつづけてほしいと思う。