黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

七月大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

七月大歌舞伎の第二部はこの時期にふさわしい夏芝居『夏祭浪花鑑』である。数か月後には團十郎の大名跡を襲名することになる市川海老蔵はすでになんどか団七を演じているが、これまでとはまたちがった印象を観るものにあたえている。

 

ほかの役者が演じるそれとくらべると、海老蔵の『夏祭』には拭い去ることのできない違和感がある。しかしそれは、おそらくは海老蔵自身が歌舞伎に感じている違和感が、かたちをかえて舞台にあらわれたものなのかもしれない。海老蔵の団七は、いうまでもなくまずはその見た目がぴったりとあっている。髭を剃り髪を結いなおして姿をあらわす二度目の出の、そのあざやかな(それでいてどこか陰のある)姿は絶品だ。それについては前回同様で、これからもそうかわることはないだろう。だが今回については、その芝居から海老蔵独特の過剰さが消えていることががおおきな違いである。過剰さが消えたというのは、いいかえれば海老蔵らしい癖が消えたということでもあるが、それにしてもあっけにとられるほどリアルな芝居の運びに驚いた。

この『夏祭』にかぎらず歌舞伎の世話物の芝居には、リアルとは程遠い様式的なものや数多くの「お約束」に満ちている。それは歌舞伎を見慣れていない観客には奇妙であり滑稽に見えるときもあるだろう。もちろん、そここそが歌舞伎の歌舞伎らしさともいえるポイントでもある。海老蔵の父、亡き十二代目團十郎はその奇妙な歌舞伎らしいところをたっぷりとデフォルメして演じ、それがいかにも團十郎といった無類のおおらかさを生んでいた。しかし今月の海老蔵はそこをサラサラと演じて見せる。おそらく海老蔵は、この『夏祭』という芝居に、現代的なリアリティが埋もれている可能性を誰よりも感じているのだろう。だからこそこの演目を繰り返し演じているはずだ。だがその直感があるがゆえに、リアルのなかに点在する歌舞伎的な奇妙な違和感をも、海老蔵は人一倍に持っているのではないだろうか。このサラサラとした団七は、いっけんすると気の抜けた印象さえあたえる。けっして巧みだとも上手いとも言えない。しかしこの道はまだなかばなのだ。このスタイルがこれから繰り返し練りあげられていったその先に、もしかしたら一本の現代映画を観るようなあたらしい世話物のかたちが見えてくるのではないか。そんな可能性さえ感じる団七だった。歌舞伎を現代に上演することの意味と方法を、海老蔵は仁左衛門や故・吉右衛門とはちがったやりかたで、しかし懸命に模索しているように見えた。

殺し場。前半までは舅・義平次(片岡市蔵)の態度に団七がいらだっていく様子が希薄で、それはそれでひとつのやりかたかもしれないが、結果として義平次の独り相撲のようで盛りあがらなかった。だがいったん刀を抜いてからの底知れぬ危うさは海老蔵独特のすばらしさであり、このラスト数分だけでも観る価値があるだろう。井戸の水をかぶる一連の流れは、やや段取りめいていてもったいないが。

 

お梶は中村雀右衛門。前回よりも「大阪のおばちゃん」的な要素がやや増したように見える(その路線での極地が藤十郎)が、それが雀右衛門にあっているかどうかはべつ。三婦から磯之丈を預けられない理由として「こんたの顔に色気があるゆえ」と言われるだけの若い女房としての色気がやや希薄。三婦にそう言われて両手を頬に添えてハッとするのはお梶の見せ場のひとつだが、その瞬間に舞台の空気が変わらないのはもったいない。先代雀右衛門のお梶はここが無類に上手かったのをまだ覚えている。だが花道のひっこみで胸に手をあてての「ここでござんす」は、ほかの誰のお梶ともちがって独特なリズムとリアリティがあって抜群によく気持ちがよい。

釣舟三婦は市川左團次。八十一歳の老優が、とぼけた持ち味を生かして好演してる。なによりもこの役にふさわしい根の明るさと明快さがあるのが特徴。後半で耳にかけた数珠を切るのも、たんに我慢ができなくなったという単純な手強さがあるのが三婦らしい。

三婦の女房おつぎは市川齊入。こういった世話の老女房をやらせると、いまでは右に出るものなしという絶品。足を崩して後ろ向きにだまって座っているだけで、その姿から世話物のにおいがたちあがってくるのはさすがとしか言いようがない。そういった意味ではこの演目のなかでもっとも『夏祭』の世界に生きているのは齊入だと言えるかもしれない。

 

つづく『雪月花三景』は、残念ながら都合により観られなかった。