国立劇場は『義経千本桜』の通し上演。全体を三部にわけて、主要な忠信、知盛、権太の三役(源九郎狐をべつに数えれば四役)のすべてを尾上菊之助が演じるという企画。新型コロナウィルスが拡大しはじめた二年半前に中止になり、残念ながら無観客の映像収録のみとなった企画のリベンジである。まったく要求される技術もニンもことなるこれらの役を演じわけることができるのは、ほんのひと握りの限られた役者のみ。二年半という時とともに菊之助がますますその芸に磨きをかけ、ひとまわりもふたまわりも充実した舞台を見せてくれる。
まずはAプログラムから。
「鳥居前」の前半部分は筋をとおすだけになりがちだが、今回はなかなか充実している。中村錦之助の義経、坂東彦三郎の弁慶、中村米吉の静御前がいずれもていねいな芝居をみせているからである。
義経は鷹揚な高貴さというよりも、やや短気な御大将をきっぱりと演じているのが錦之助らしく独特。「言わせもあえず御大将」でツカツカと弁慶に歩み寄り詰問するイキのよさがそれを象徴している。
彦三郎の弁慶は「主君を狙う討手のものをまじまじ見ていらりょうか」というセリフが意味がよくとおり、自分の行動が主君を結果的にあやうい立場に追い込んでしまった苦悩をにじませてうまい。それこそが義経流転のきっかけになった(すくなくともその責任を慶自身が感じている)こと、しかしそれも忠義ゆえの行動で悔いていないことを見るものに感じさせる。こういうドラマを想像させる弁慶はなかなかいない。
米吉の静は語尾をくねらせるいつもの癖がなりをひそめ、時代物らしいセリフになっているのが驚き。それでいて柔らかさより感情の明確さが際立ち、錦之助の義経とテイストがあっている。
後半になり、いよいよ忠信の登場となる。今回もっとも菊之助のニンからかけはなれているのが、荒事の典型であるこの「鳥居前」の忠信だろうが、なんとそれが想像以上に完成度が高い。揚幕のなかからの声もことさら荒げることなく立体的に聞かせるうまさ。縦長の顔に隈がよくのり、重心がしっかりとおちたよい忠信だ。幕外引っ込みでの、さりげない狐手も最小限でよい。
笹目忠太は尾上菊市郎。抜擢にこたえて見事な好演。花道でのすべりがちになる「待て、待て」が三味線とうまくはまって心地よい。「ヤアヤア忠信」のノリも楽屋落ちなネタを入れるわけでもなく、ひたすらリズムと間の良さだけで笑いを取っている。きちんとやれば古典も現代の観客を笑わせることができるという好例だ。
「渡海屋」は弁慶の出をカットすることなくはじめから。
菊之助の銀平/知盛は、やはりものたりなさが残る。花道から出る姿もどこかこじんまりとしているし、相模五郎の話を聞いているあいだも余裕さにかける。かと思えば仁左衛門のそれのようにリアルに話を聞く姿勢を見せるわけでもない。ニンが違うといえばそれまでだが、座り方ひとつでガラリかわるだろうに残念。ただし「武士の武の字は」の講釈はなかなか説得力があってよい。「お匿い申したら」のくだりは誰もが奥の義経一行に聞こえるようにこれみよがしに張っていうが、それが菊之助の場合はさり気ない。顔も下手側へほんのわずかに傾けるだけ。それはいっけんすると(とくにはじめて観るなら)わかりにくいように思えるが、それが肚ひとつでつながっているので絶妙に面白い。
この「渡海屋」てもっとも印象にのこるのは中村梅枝のお柳/典侍の局だ。その身体からただよう古典的な味はいつものとおりさすがだが、とくに今回は「日和見」の長台詞が格段にうまい。しゃべりのうまさもさることながら、かならず調子をかえるひとつ前にそのきっかけを内側で起こしているのがわかり、圧倒的な説得力をもつ。そしてこれがなにより、夫・銀平への愛情、夫婦の仲睦まじい様子がありありとリアリティをもって伝わってくるのが独特。これは後述する「大物浦」へつながるおおきな伏線になっている。
市村橘太郎の相模五郎は役があっていないと言えばそれまでなのだが、ベリベリとした手強さにかける。ただし、引っ込みの魚づくしはさすがの名調子。わかりやすさとリズムのよさを両立させて面白くしあがっている。入江丹蔵は山崎咲十郎。
渡海屋の裏座敷。梅枝の典侍の局は十二単がよく似合い、また「八代竜王」のセリフは勢いだけでなく朗々と聞かせるのが格を感じさせて良い。安徳帝を二重から平舞台にみちびくと、女官二人が白布を敷く。今回は安徳帝はそのうえに立つことになるが、この布がどうも見ていてきれいでなく違和感。
「大物浦」になり、手負いの知盛が出る。この場の菊之助は前場とはうってかわって傑出した熱演である。捕手をけちらし花道七三できまるが、舌出しはもちろん幽霊手もなし。「天皇はいずくにおわす」ときっぱりと言って倒れこむテンポの良さ。あらわれた義経一行への戦神のような抵抗ぶりはなかなかに引き込まれる。
今回の菊之助の知盛が独特なのは、典侍の局との関係性がここで明確になることである。自害して果てる局と目と目を交わしあうさまを見て、ああこの二人はこの地で(たとえ仮の姿であったとしても)夫婦として幸せな時間を過ごしたのだなと思われた。ひとつの幸せな家庭が、ここで終わりをむかえる。そのリアリティは菊之助・梅枝のふたりが意図してつくりあげたものに違いない。この色濃く前面に押しだされた「家族の崩壊の悲劇」こそ、菊之助にとっての『義経千本桜』のもっともおおきなテーマなのだろう。そしてそれはこの古典作品を現代に有意味なものにするために、きわめて重要なポイントになるはずだ。
そして教えをうけた岳父・吉右衛門を思わせる「三悪道」のくだりのていねいさは特筆もの。なによりも現代の観客にその意味が明確に伝わることにつとめているように思える。碇をかついでの最期は悲壮そのもの。重い碇をその身体に「かつぐ」意味を、菊之助はしっかりと見るものに伝えてくれる。播磨屋の舞台を思い出した。
尾上丑之助の安徳帝は、この役をやるにはさすがにおおきくなりすぎた。かぎられた部分だけ肩に抱かれ、あとは輿に乗っての移動という変則なかたち。それはそれでよいが、やはり安徳帝の超越性はもっと幼い子役が演じるからこそ出るのだとあらためて感じた。
幕切れ、彦三郎の弁慶が七三で法螺貝を吹く。揚幕側、本舞台側、そしてそのあいだと、三度にわけてそれぞれ一定のリズムをともなって吹かれる。これがじつに様式的であり、知盛の死を悼むにふさわしい厳粛さにあふれていて良い。演じている彦三郎もよいが、黒御簾のなかにいる吹き手も見事である。