黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

通し狂言『義経千本桜』Bプロ(国立劇場)

三部構成のBプログラムは『義経千本桜』の三段目。いがみの権太を尾上菊之助が演じる。これが細部までていねいにねられたなかなか完成度の高い舞台。


まずは「椎木・小金吾討死」から。菊之助の権太は、六代をみての「おきれいなお生まれつきだね」で自然にたくらみをにおわせるうまさ。椎の実を落とすために石を投げるのは花道の七三から。いちど引っ込んで二度目の出になり、荷物を見られたことに気がついての「さようでございますかい」でさらりとかわる凄みが絶妙だ。そこから荷物を調べて「ねえぞ、ねえぞ」と繰り返していくのもテンポがよく、そのあとへ自然につながっていく。二十両を騙りとって花道へ。七三だけではなく花道のなかばすぎまでおおきく使って小金吾を挑発。三階席からも花道のよく見える国立劇場ならではで、舞台の立体感が出るとともに、口では強がったことを言いながら小金吾の刀にビクビクしている権太の内心がよくわかる。

この場の権太の唯一の欠点は、親子三人になってからの情がうすく見えること。「冷てえ手だなぁ」はやや型どおり。情がうすく見えるという意味では、権太の女房・小せんを演じる上村吉弥にもおなじことを感じる。吉弥もセリフも芝居もていねいでさすがだが、いささか若々しさや夫や子供とのかかわりが希薄。亡き片岡秀太郎が晩年まで演じてうまかったのは、そのかわいらしさがあったゆえたろう。

小金吾は中村萬太郎。ていねいなセリフといい、きっぱりとした立ち回りのうまさといい、じつにあざやかでよい。

河原崎権十郎の弥左衛門ははじめて観るが、これまた必見の傑作。時代世話の老役らしい絶妙なセリフのたくみさ。それでいて重くなりすぎないのがぴったりとはまっている。

若葉の内侍は上村吉太郎。セリフのうまさもさることながら、幼い六代の母に見える若さがあるのがよい。小金吾の死をひきたつのも、この典侍の芝居のよさがあってこそ。尾上菊市郎の猪熊大之進がなかなかの見もの。かたちのよさにくわえ手強さがあり、「鳥居前」の笹目忠太につづいての名演である。

 

最後は「鮓屋」。
菊之助の権太は、この場でも音羽屋系の折り目正しい型をていねいに演じていてよい。それでいて自然にこなれており、以前の菊之助にはない表情の豊かさも見せる。

これは菊之助のせいではないが、鮓桶の取り違えギミックは、音羽屋系の型のなかでもきわだって不自然なもの。仁左衛門があまりにあざやかに矛盾なく処理しているのを見てしまうと、権太が(慌てているとは言え)なぜ間違った首桶をもって駆け出してしまうのか、観客は白けてしまう。これについては、そろそろ見直してはどうだろうか。

手負いになってからの述懐は思いのほかにおとなしく、身代わり首の種明かしもやや説明じみている。どうしたのかと思っていると、どうやらそのすぐあとの「この権太の女房せがれだ」を頂点に設定しているためだろう。親への恩返しのため、自分の家族を犠牲にした。そのことをなによりの悲劇としてえがいているのである。それは「渡海屋・大物浦」でも見せた、菊之助の明確なテーマであり、やはり作品全体をとおして貫徹しているようだ。その計算がやや見えてしまうが、なんども繰り返し演じられることで練られていくだろう。
権十郎の弥左衛門は、この場でもさすがの好演。弥左衛門女房おくらは市村橘太郎。相模五郎とはちがって、さすがのはまり具合。権太のでまかせを即座に信じてしまうひとのよさ、鍵をこじ開ける息子に向かって「器用な子じゃの」と言ってしまう親バカぶりがぴったりである。
弥助/維盛は中村梅枝。弥左衛門に「まず、まず」と呼びとめられて維盛に「たちまちかわる」うまさが梅枝らしい。しかし、あまりにきっぱりときまりすぎる所作のせいか、三位の殿上人たる維盛にふさわしい鷹揚な高貴さがいささか希薄。最後の場面での源氏方への恨みを語るのも、やや直情的すぎるように思われる。それは年齢とともに自然と出てくるものでもあり、梅枝のキャリアでそれを求めるのは酷かもしれないが、あまりの完成度に観るほうにも欲も出る。
中村米吉のお里は、「鳥居前」の静御前とおなじく格段の進化を感じさせる熱演。セリフの癖はここでも鳴りをひそめているが、ここまでかわるというのは誰かに厳しく教えられたのだろうか。「お月さんも寝やしゃんした」には芸としてのかわいさがある。維盛と行灯を挟んでのクドキは、意外にもこってりとした味があり、人形味さえ感じさせる所作は見ごたえあり。

梶原平三は中村又五郎。最終的にはすべてをわかっている、そのおおきさを感じさせる。この演じ方なら顔は白塗りのほうが良いかもしれない。