黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

壽初春大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

新春の歌舞伎座の初日を観る。まずは第二部から。

 

『壽恵方蘇我』は、正月ならではのあかるくめてたい蘇我物の舞踊劇。シンプルな内容ながら、豪華な面々がならぶ。

蘇我五郎・十郎の兄弟を松本幸四郎と市川猿之助のふたりが演じることは、ここでの芝居を超えた意味を感じさせる。コロナウィルスでの中断をのりこえての再開場以来、歌舞伎座の舞台に誰よりも出ていたのはこのふたり。古典から新作まで、この二年半のあいだの歌舞伎座は、極論をおそれずにいえば幸四郎と猿之助の劇場であった。正月からふたりが並んで古典の代表作に出ることは、あたらしい年もまた自分たちがその中心にいるのだという、決意表明にも思われた。

幸四郎の五郎はニンではない役ながら、先日の『矢の根』とおなじく技術で荒事らしいきっぱりとした動きをみせて爽快。声も高音にうまく逃がして、無理をしていないのがよい。猿之助の十郎はそのやわらかさがていねいで、いかにも新春に似つかわしいのがさすがだが、いささか淡白すぎるようだ。

工藤祐経を演じる松本白鸚は、その圧倒的な座頭たる存在感が工藤らしい。衰えない声がいまだに誰よりも客席にひびきわたる。市川染五郎の犬坊丸がさわやかにきまって目を引く。舞台をぐっとしめる中村歌六の鬼王新左衛門。

長唄の杵屋勝四郎の美声が、新春早々耳に心地よい

 

『人間万事金世中』は、こちらも正月らしいライトな喜劇。ひさびさの上演となる。

強欲な勢左衛門を演じるのは坂東彌十郎。持ち前のリアルな芝居のうまさをいかして好演。欲を言えば、もうひとつ欲深な手強さがあればと思うが、それもまた弥十郎らしい。

中村錦之助が演じる林之助が実質的な主役ともいえる。実直な若者ではあるが、そのなかに「いい人』ではおわらない現実主義的な強さも見せてぴったりの配役。

おくら役は片岡孝太郎。大詰の波止場での林之助とのふたりの芝居は、全幕をとおしてもっとも歌舞伎らしい芝居になっていて見どころ。最近では時代物の女房役などで素晴らしい舞台を見せる孝太郎のひさびさの娘役、なかなか充実している。

勢左衛門の妻おらんと娘おしなを演じるのは、中村扇雀と中村虎之助。ナチュラルなニュアンスのなかで芝居をはこんでいく絶妙なうまさは、さすが上方役者といったところか。

といった具合に脇にいたるまでなかなかよいアンサンブルのわりに、舞台はいまひとつもりあがらず不完全燃焼におわる。ひとつには、演じ方の様式的な問題がある。黙阿弥ものらしいリズムのエッジの効いた芝居と、松竹新喜劇のようなもっと現代的な演じ方との、なんともいえない不統一な印象が拭えない。たとえば序幕における上滑り感は、まさにこれが原因としか思えない。これはけっして初日ゆえのテンポの悪さだけが理由ではない。

もうひとつは、根本的に台本そのものの問題である。例をあげればきりがないが、寿無田宇津蔵(中村鴈治郎)への借金返済のくだりなどは典型的な拵え事だが、これに林之助もからんでいたという種明かしはあまりに不自然。また、大詰の波止場での林之助の落胆、おくらとのやりとりから、ラストのどんでん返しまでの流れにも無理がありすぎて釈然としない。結果として痛快さに欠けるままに終わってしまう。ここまでくると台本を整理する程度ではどうしようもないだろう。

せっかくの面白い座組。もっとすっきりする初春芝居を観たかったようにも思う。