黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

壽初春大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

新年の歌舞伎座第三部は『十六夜清心』のひさびさの半通し上演。何年かにいちど観ているような気がするこの狂言が、初役ばかりの新鮮な座組で演じられた。結論から言えば、きわめて現代的なドラマの面白さと比類ない美しさとが共存する名演。おそらくこののちすくなくとも十五年はスタンダードになると思われる傑出した舞台である。

 

まずはいつもの「百本杭の場」から「川下」まで。松本幸四郎の清心と中村七之助の十六夜が、初日からいずれも初役とは思えない完成度。もちろん見た目からしてきわめて美しく、ていねいな芝居のうまさが随所に光る。仁左衛門と玉三郎の名コンビがもっていた幻想的な儚い美とはまた別の、あやうさをもった現代的な美がそこにはある。だが、この舞台が現代的だというのは、もっと根本的なふたつの意味がある。

ひとつは、清元の調べにのったなかば舞踊劇のようなこの「百本杭の場」でのふたりの所作からは、いちじるしく人間的な情感がはがれおちているということである。そこには香る色気もなければ、垣間見える内面もない。いわば人形のようなシンプルな空虚さがあるのだ。それはけっしてネガティブな意味で言っているのではない。その空虚さゆえに、能面が複雑な表情をまとうように、文楽人形がこのうえなく克明に内面を表現するように、かえってかがやいている。この逆説的な饒舌さこそ、現代的だというところである。

もうひとつは、とくに清心という人物の行動原理が、本人にとっても無自覚なものに突き動かされているように見える点である。ひとつ例をあげる。心中に失敗して死に遅れた清心がたまたま出会った求女から金を奪おうと決心するくだりなどが顕著だ。どこで金を盗ろうとするのか、なんのために奪うのか、それは観客にはじつはわかりにくい。わかりにくいからこそ清心役者はそれを工夫して演じるわけだが、幸四郎の清心はその過程がきわめてシームレスにつながっている。明確な理由、明確なタイミングがあるわけではなく、無自覚なままに無意識がつながって結果へといたる。この能動的ではない登場人物の行動が、現代演劇的なのである。そしてそれは唐突なものかといえばそうではない。そもそも河竹黙阿弥の作品のなかにある「因果」という原理そのものが、人物の内面や理屈をはなれたところでものがたりを突き動かしているということが特徴としてあるからだ。

さらに、そのような無自覚・無自性とも言うべき特徴を持ちながら、要所要所で芝居がていねいであることも特筆すべきところ。たとえば十六夜が清心に妊娠三ヶ月であることを告げる場面でのリアルさ。偶発的に求女を殺してしまったことに動揺する清心が一転して「しかし待てよ」と調子を変え、それらを知るのは「お月様と俺ひとり」と開きなおるにいたる凄み。初役かつ初日だというのに驚きの完成度だ。

求女を演じるのは中村壱太郎。こちらも初役とのことだが、姿といい、声といい切ってはめたようなよい求女。花道七三に立って本舞台の清心と掛け合う割台詞が、間を詰めていくようで急がない絶妙さが本格。白蓮は中村梅玉、船頭三次は市川男女蔵。ついでながら、幕切れの十六夜、清心、白蓮、三次の「だんまり」は短いながらも丁寧でよかった。近年「だんまり」は「暗くて視界が利かない」というあたりまえのお約束がないがしろにされることがおおいが、さすがに見事。

後半の「白蓮妾宅」から「白蓮本宅」も、初役ぞろいの座組とは思えないアンサンブル。芝居のベースは仁左衛門と玉三郎のそれとおなじなのだが、媚びのない骨太な芝居運びが幸四郎と七之助のよさ。幸四郎はセリフや芝居のていねいさもよいが、客席まで臭いがしていくるようないやらしさの表現がうまい。女房お藤の市川高麗蔵、下男杢助の中村亀鶴。中村梅玉の白蓮は「百本杭川下」ではいささか軽すぎるようにも思えたが、ここでは堂々たる親分である。貫禄があるというのではなく、それこそ「聞く力」をもった落ち着きがあるのが独特でよい。

 

正月初日ゆえにテレビ中継もあったようで、おおくの歌舞伎ファンがこの舞台を見たと思われる。こうして名作があたらしい世代によって引きつがれ、かつ高い水準で磨きあげられていくのを目にするのは幸せなことだ。