黒井緑朗のひとりがたり

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川島素晴 plays...vol.5 "自作陶器"

 

コンセプチュアルなコンサートを企画する作曲家、川島素晴の自主公演を聴いた。チラシの表面を見ているだけでは、とても現代音楽のコンサートとは思われないだろう。川島自身の手による陶器を「楽器」として使用するという試みである。

舞台のうえには中央にブルーシートが拡げられ、そこには洗面器がおかれている。上手の手前と下手の奥には、陶器の風鈴が無数に下げられた、白いツリー(そこには扇風機で絶え間なく風があてられている)が立つ。ほかにも陶器がならべられた長テーブルがふたつ。中央奥には陶製ウィンドチャイムというべき楽器が配置されている。

 

最初にジョン・ケージの『0'00"』と『Living Room Music』がつづけて演奏される。1962年に作曲された一曲目は、1952年につくられたケージ自身の有名な『4'33"』のヴァリエーションとも続編ともいうべきもの。0秒のあいだに「なにか日常的な行為をおこなう」という、それだけの曲である。重要なのは「つぎに演奏するときにはすでにとりあげた行為はにどと使ってはならない」という指示があること。この注意書きはそのまま、このコンサートのテーマにかかわるモチーフでもあるだろう。今夜選ばれた行為は「土を捏ねる」こと。そしてタイトルに反してなんども単調に繰り返されたその行為から、シームレスに二曲目へとつづいていく。反復する行為からその瞬間を切り取ることが、観る/聴くものに委ねられている。二曲目は1940年の作品。この時期のケージらしいパフォーマブルな音楽で、任意の家庭用品を楽器にしたり、会話したりすることで構成される。演劇的な空間をつくりだすが、音楽そのものは古典的なもの。

フレデリック・ジェフスキーの『To the Earth』が三曲目。ホメロスの詩を朗読しながら4つの植木鉢が叩かれる。こちらも川島自作の陶器が使用される。

前半の最後は、見澤ゆかりの『Introduction 二河白道』の初演。前述の風鈴を下げたツリーや陶製ウィンドチャイム、そして照明を駆使した演劇的作品。死してなお様々なものを振り払えない人間の、苦しみ悶える「度しがたい」姿をえがく。ウィンドチャイムが、ひたすら「度すべき」境界の出入口としてのみ機能し、それが音を奏でるのは最後のみという、贅沢にしてこのうえなく効果的なつかわれかたをしている。作品としての堅牢さが素晴らしく、再演されるべき秀作だと思うが、パフォーマーのスキルによってそのクオリティがおおきく左右されそうだ。川島の演奏(演技)はそれだけ圧倒的でアパッショナートなものだった。けっして鳴らしてはいけないウィンドチャイムをなんども勢いよく潜り抜けるその身体能力もまた。

 

後半最初に演奏されたのは金田望の『話し方と身振りのエチュード』。陶器で作られた「陶琴」をたたく川島の取り憑かれたような演奏ぶりが印象的。ラストで枠から鍵盤がはずれるという意図された崩壊も、川島にあてて書かれた作品らしい。

灰街令の『京極』も委嘱作品の初演。断片化された和歌のテクストが、ためらうように途切れながら引き伸ばされ詠唱される。いくつもの陶器を叩いたり擦ったりする音が、そのなかで断続的に響く。能楽のようであり、密教音楽のようでもあるそれは、始終独特のリリシズムを感じさせる。今夜の委嘱作品のなかでは、もっとも楽器のマテリアルが陶器であることを「音響的」に生かしたものといってよいだろう。

つぎに川島素晴自身の作曲による『陶楽三題「陶酔」「鬱陶」「陶芸」』の初演。いずれも陶器を楽器として使用するが、その使われ方(合目的性)がまったくことなっている。「陶酔」パートでは、水の張られた洗面器に茶碗を浸し、その浸水具合による音の変化を楽しむ。そもそも茶碗は固形物や液体を入れる目的をもって作られたものであるし、水のなかにいくつも沈められガチャガチャとぶつかりながら音をたてるさまは、まさにキッチンで見られる日常に近い光景だ。「鬱陶」パートでは、トライアングルやウィンドチャイムのように演奏することを目的に作られた陶器が、まさにその目的に適うように奏でられる。「陶芸」パートは、いくつもの陶器を積みかさねてオブジェを作っていくもの。なかなか重なってくれないのは、それらの陶器は本来重ねられるために作らていないから当然だ。それを四苦八苦しながら無理やり積みかさねていくさまは、異質なマテリアルである音を組みたてる「作曲」という行為の(かなり明示的な)メタファーでもある。会場から笑いも漏れるほどユーモアに満ちたその作業が、だんだんと崇高さを帯びていくのが面白い。

湯浅譲二の『呼びかわし』は、舞台上の五芒星のうえをパフォーマーが動きながら発話する。このなかで振られるサイコロが、今夜は陶器製というもの。カランカランというそのさいころがたてる音そのものがひじょうに印象的だが、言語の諸要素の分解、偶然性、発話と発話者の距離というコンセプトが、1973年の初演時とはことなり、いまとなってはいささか観念的すぎるように思える。。それを現代のわたしたちがリアリティをもってうけとめるには、もうひとつ演奏するにあたっての工夫が必要だろうが、そこまでのものは見いだせなかった。

 

このコンサートのことを知ったとき、使用した陶器をすべて舞台上で壊すのではないかと予想していた。フライヤーに思わせぶりに「一回限りのリサイタル」と書かれていたことも、そう思わせた。複製可能な工業製品ではない、唯一性をもった手作りの陶器。それを使用することを前提に作られた作品であれば、その楽器を破壊してしまえば再演されることは不可能になる。しかしその予想はあたらなかった。あの陶器たちは壊されることはなかったのである。もちろん、使用する楽器を破壊するという手法はいまさら感のあるありきたりなものだ。だが、あえてそのいまさら感を背負いながら、あの陶器たちは壊された可能性もあったかもしれないと思う。

前半に演奏された作曲家ジェフスキーは、「コピーレフト」の概念でも知られている。創作物が作者の手を放れるやいなや、すべてのひとにその利用や改変を無制限に認めるというラディカルな考え方である。法的に、また倫理的に作者の権利をどこまで守るべきかという議論はここではしまい。だが、作品演奏に必須な楽器そのものが失われてしまい、しかもその楽器が再現不可能なものであったならば、それらの机上の理論をすべてとおりこして究極に一回性の音楽になるだろう。陶器は使われる。使われるなかでしばしば壊れる。作曲家でありながら再現芸術家でもある川島素晴にはそれがふさわしいようにも思えたが、そんな選択をしないのもまた、川島素晴らしいと妙に納得して帰路についた。