黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

團菊祭五月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

恒例の團菊祭。今年は昼夜二部制での開催で、その昼の部から。

 

『若き日の信長』が十二代目團十郎の十年祭追善演目として上演される。もうずいぶん昔のことのように感じるが、まだ先代の團十郎がなくなって十年しかたっていないのかとあらためて思う。それにしても、その追善という記念すべきその演目がなぜ大佛次郎の『若き日の信長』なのか。たしかに祖父・十一代目が初演してのち、父・十二代目そして当代團十郎と、成田屋が専売特許でくりかえし演じてきたものだ。しかし節目の年には、もっとふさわしい作品があるのではないか。そもそも『若き日の信長』という作品は戯曲として一級品だとはいえない。一般的に知られた話をなぞるだけの展開に、心酔わせるようなセリフがあるわけでもない。昭和の時代ならいざしらず、いまとなっては凡庸とのそしりは免れないだろう。

だがそれでも、やはりこの追善にあたって團十郎が信長を演じたのには意味があったようだ。ひとつには團十郎の芸が充実してきたこと。若さゆえのあやうさがその特徴だったものが、またひとつかわって堂々とした信長になっている。これが「若き日の」信長像としてどうなのかという考えもあるだろうが、若い時代から常識でははかれなかった信長という人物のスケールと恐ろしいまでの奥行きが感じられ、ようやく当代ならではの信長が完成したといえる。とくに大詰の書院での、亡き平手の幻影と呑み交わす場面など、ぞくっとするほどの凄みがある。良くも悪くも内面の欠落という、海老蔵時代からの團十郎の特徴がこのうえなく生かされていたといえるだろう。ただ「敦盛」の舞の場面はもっと能がかったやりたのほうがいまの團十郎にはあう。それであれば過剰な照明効果などなくても、自然と底知れぬ怖さが出たはず。

まわりの役では、羽柴秀吉役の市川右團次が爽快で好演。中村梅玉が平手政秀を演じるが、さすがにこの実録の老け役はちょっと気の毒な配役か。

 

これまでおおくの舞台でわたしたちを魅了してきた寺島眞秀が、初代尾上眞秀として『音菊眞秀若武者』でいよいよ初舞台。こうした場合どうしても豪華なにぎやかしに終始するのがつねだが、なかなか演目として面白く観られた。

まず作品として明快にまとまり、かつ構成感がきちんと感じられるのがよい。それぞれの役者の見せ場が、きちんと必然性があるために観ていて飽きない。劇中口上などもあるかと思われたが、それもなくすっきり。また、その脇をかためる役者の芝居が充実している。こうした鷹揚な大名を演じさせたら右に出るものはいないであろう團十郎の大伴家茂、また格を感じさせる藤波御前を演じる尾上菊之助をはじめとして、渋谿監物の坂東彦三郎、腰元の中村梅枝などもよい。尾上菊五郎が八幡太郎でどんとしめている。ひときわ際立つのは尾上松緑の長坂趙範で、敵役としてのスケールがあり好演。なによりも声のつかいかたの幅がまたひとつひろがり、荒々しさがうまくセリフに乗っていてよい。

そして初舞台の寺島眞秀は、なによりも観るものの目をひく主役の雰囲気があるのがよい。芯になる役者が共通して持っている、その姿をまとう華がある。十歳という年齢にしては頭身や手足のバランスが美しいが、これが身体の成長したときにどうなっていくのかは楽しみ。