黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

團菊祭五月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

團菊祭夜の部。

 

『達陀』は尾上松緑が二度目の集慶。歌舞伎座でははじめてとなる。最近の松緑のスタイルどおり、こまかいリアルな表現を排して楷書で力強く攻めるのが好印象。もちろん先月の圧倒的な『連獅子』にはおよばないが、骨太な松緑の芸質に作品があっている。幻想的な回想シーンでの若き集慶を子息の尾上左近に演じわけさせるのも、この松緑のつくりかたにふさわしい。メタに過去への想いを見つめる視点が導入され、集慶の内面がおのずとたちあがるからである。

青衣の女人は中村梅枝。こういう異空間にありながら古風な香りをただよわせる役はじつにうまい。これは演出上の問題だが、下手の紗幕ごしにひとくさり踊った後、あっというまに下手袖にはいってまた下手から本舞台に出てくるのはなんとも興覚めする。

いささか不満に感じた点がふたつ。ひとつは群舞のクオリティ。クオリティというのが乱暴であればスタイルの問題と言いかえてもいい。伝統的な歌舞伎舞踊の枠をおおきくはずれたこの踊りは、むしろ現代では現代舞踊ではよくみられるもの。歌舞伎舞踊の場合はその身体の形やタイミングがかならずしもぴったりと揃うことを求めないが、こういったダンスでは驚異的な精度で一糸乱れず踊る舞台がいくらでもあり、それがカタルシスを生む。歌舞伎演目としての『達陀』がつくられたころはこれでよかったかもしれないが、いまほんとうに観客の心をわしづかみにしようと思ったら、この群舞セクションの精度を高めることは必須ではないか。

もうひとつは照明。炎のこの作品にもたらす効果はきわめておおきい。しかしながら松明に仕込まれたLEDライトや舞台を照らす灯りの、あの下品極まりない赤の色はなんなのか。そもそもあれは燃えさかる炎とあまりにかけはなれているし、その熱量も宗教的な精神性も感じられない。極端なことを言えばこの作品の主役のひとつはこの炎だと思うのだが、それがあの平面的な赤なのだとすれば情けなくなる。

 

『髪結新三』は尾上菊之助が五年ぶり二度目の新三を演じる。もとより新三は菊之助のニンではないだろうが、初役のときはていねいに父のやりかたを演じて乗り切っていた。それが今回はまたひとつ進化したように思う。

といってもまず白子屋の場では拍子抜けした。登場で下手からではなく花道から出るのはとてもよい選択だが、七三でのセリフも白子屋の戸口でのひとりごとも軽すぎて新三のそれではない。手代の忠七相手に髪を結う場面は最初の見せ場だが、セリフを言えば手がとまり、手が動くとセリフがとまるといった具合で間のびしている。「不忠がかえって忠義となって、粋な男になりやすぜ」ももっと張ってきめたほうがそれこそ粋だろう。どこからどうみても頼りがいのない好青年にしか見えないのだが、それがのちの場での変化を際立たせるための計算なのだとしたら、どうも的をはずしているように思う。それは役の性根があまりに違うからである。

しかしこの新三が、つぎの永代橋ではがらりとよくなって驚かされる。だんだんと本性をあらわしていく具合。しずかな言葉に凄みをきかせるうまさ。この場の立体的な組みたての巧みさは前回も同様のすばらしさだったのだが、それがいっそう磨きあげられた。なにより驚いたのはその声だ。菊五郎がいま舞台にいるのかと一瞬錯覚するほど、この場の新三の声には腹から響く深さがあった。有名な傘づくしのセリフの組みたての見事さ、時代に張るそのしなやかさなどもあって、この場になにか底知れぬ不気味なものがたちあがったかのような錯覚さえ感じさせた。それは新三という人物をもこえた、もっとおおきな悪の魅力といってよい。この場こそ、今月の白眉と言ってよいだろう。つづく新三内の場以降はややテンションがひくめとはいえ、芝居のリズムは見事で、回をかさねていくながでもっとこなれていくのだろうと楽しみだ。

忠七役の中村萬太郎が、もちまえのセリフのうまさを生かして好演。むずかしい世話と時代の切り替えもあざやかで、やや現代的なかわいらしさが出すぎなところとが玉に瑕と感じるくらいよい忠七。特筆すべきは大家を初役とは思えない自然さで演じる河原崎権十郎と、こちらはなんども演じて安定の大家女房役の市村萬次郎のコンビ。勝奴には異例の抜擢とも言うべき尾上菊次で、立ち居振舞いもセリフも、ある意味この座組のなかでもっとも作品世界にはまっていて安定している。新三のライバル源七には坂東彦三郎。祖父・十七代目羽左衛門もなんどもやった役でさすがに似合っているが、初役のせいかやや硬すぎて余裕がないように見える。

冒頭につけられた解説は、その口跡あざやかな蔦之助のウデはたしかなのだが、はたして必要なのか。なくてもわかることと、今回の内容には関係ないこと、そして何十年も時代遅れな倫理の授業のようなまとめには閉口。せっかく季節感がいかせる時期の上演、風情もなにもあったものではない。

菊五郎劇団を代表する演目のひとつである『髪結新三』も、こうして確実に次世代へと受けつがれていく。もちろん昔のような風情や空気感といったものは薄れていくだろうが、それを次世代に期待しても無駄なことだし、かえって中途半端なものになってしまうだろう。たいせつなことは黙阿弥の書いた作品そのものから、わたしたちが生きている「いま」の時代にふさわしい黙阿弥らしさをきちんとつくりあげることだ。菊之介が永代橋の場で見せた底知れない不気味さをともなった悪の魅力は、菊之介の特質がきわめていかされたものだし、なんといってもそれは紛れもなく黙阿弥作品がもともと含有していたものだ。古典はまだまだ可能性を秘めている。