納涼歌舞伎第三部は新作歌舞伎『狐花』の初演。人気の本格ミステリー作家・京極夏彦が今月のために書き下ろしたもので、初日のわずか一週間前には小説版もあわせて発売された。小説のほうは京極夏彦の作品としては異例なほどすぐ読めてしまうライトなもので、舞台化を前提としたものであることがわかる。それをどう舞台化するかというところも見どころ。作品としては鶴屋南北ものにもまけないくらい面白くなりうる可能性をひめたもので必見の舞台だが、そもそも台本・演出上の問題点がいくつもある。
まずはじめに、あまりにミステリーもの(この作品がミステリーかどうかは議論の余地がおおいにあるが)としての根幹にかかわるおおきな問題点がある。それは萩之介と下女・お葉の二役を中村七之助が兼ねて演じるという事実である。歌舞伎ではよくある二役だが、萩之介がすなわちお葉であることは容易に想像できてしまい、事件の真相がはじめから一目瞭然になってしまう。
つぎに、登紀と実祢のふたりがお葉の部屋へやってくる場面で、さんざん「萩之介、萩之介」というのだがとうぜんそれまでに舞台には出ていない名前なので観客は予備知識がなければ置いてけ堀にされる。むろんのこと萩之介のことを三人が「殺したのだから」と言われても、その衝撃はほとんど意味をなしていない。
その萩之介はなんども舞台に登場するのだが、そろそろと歩いてきたと思ったら後ろを向いてツカツカと退場するなど、どう考えても幽霊のそれではなく生者であることが明白で、彼を幽霊のごとく思っている娘たちに共感できなくなっている。歌舞伎であれば、いや歌舞伎だからこそその境界をあいまいにして萩之介を印象的に出す工夫はいくらでもあるはずなのにと残念に思われた。
構成上の問題を言えば、まずそもそも原作にはない二十数年前の事件を発端で見せているのがもったいない。観客にわかりやすくと思ったのだろうが、四人の男たちが極悪な所業をしたのだということがはじめから明白すぎてなんのサスペンスにもなっていない。そのせいで上月監物などははじめから典型的な悪役として演じざるを得なくなり役が浅くなってしまっている。
そしてもともと京極夏彦の小説の登場人物たちはよくしゃべることで知られているが、全体に歌舞伎作品のセリフとしてはあまりに長すぎるところがおおい。小説では最初に配置されている黒づくめの男と狐面の男との場面などは、彼らの正体がなかばわかった状況で会話を交わすのがいささか冗長に感じさせる。大詰の中禅寺と上月監物のやりとりは、ながながとしゃべるのは京極堂のご先祖様ゆえしかたがないが、芝居として組みたてられていないのでラストが唐突に見える。舞台ゆえの工夫がもうひとつふたつ欲しい。
とはいえこの作品を面白くしているのは出演者の努力とわざであることは異論を待たない。特筆すべきは中村七之助の萩之介で、新作とはおもえないほど一分の隙もない完成度である。様式的にしっかりした冷徹なセリフといい、敵と対峙する場面の高揚感といい間違いなく第一の出来。
娘たちもそれぞれに特質が生かされて好演。もっとも成功しているのは坂東新悟の登紀。それしかないというほどの意地の悪い「美しさ」を体現しており見事。中村米吉の雪乃、中村虎之介の実祢もあわせて三人がそれぞれに役を演じ分けているのがよい。
市川猿弥の近江屋源兵衛、片岡亀蔵の辰巳屋棠蔵は配役を見ただけで納得させられるはまり役。ふたりとも悪人らしさを強調しないのがよい。中村橋之助の番頭儀助はいささか現代劇めいてはいるが、芝居はしっかりとしていて説得力がある。中村勘九郎の上月監物は線が太く敵役としてきわめて好演しているが、はじめから横暴な悪人らしさを演じようとしすぎているのがもったいない。的場佐平次は市川染五郎。年々荒れていく声は心配しかないが、セリフは意外なほど計算されていてしっかりと聞かせる。
そんななかで問題なのは松本幸四郎の中禅寺洲齋である。初日からまだ間もなくいろいろとぎりぎりだったのかもしれないが、セリフが怪しすぎるのは致命的にこまる。内容を理解していればそんなふうにはごまかさないだろうという、ドラマの根幹をになう部分での言いよどみや間違いが目立つ。ごまかそうとするからセリフが流れて印象が散漫になる。幸四郎の悪いところが目立ってしまっているのが残念。中禅寺は(その子孫の中禅寺秋彦とおなじく)「言葉」によって憑き物落としをする。それは論理のないところに論理をもたらして不明なものを明らかにしていくことだ。言葉に力がないのではこの役にはならない。