十月歌舞伎座の昼の部は時代者の名作『俊寛』から。亡き吉右衛門の芸を継承すべく、尾上菊之助が初役で俊寛を演じている。もちろん吉右衛門がつくりあげたギリシャ悲劇のような悲壮なドラマはそこにはない。ニンからいっても菊之助のそれではなく、むしろ共演の中村歌六はもちろんのこと、ひょっとすると中村吉之丞のほうがはまるだろう。だがそこは菊之助のこと。なんといっても細部までていねいに作り込まれた芝居が、作品そのものの面白さを克明に浮かびあがらせており、完成度の高い舞台になっている。
岩山の陰からの登場で、「枯れ木の杖によろよろ」での足取りのうまさが抜群。リアルさよりも歌舞伎的な動きの面白さが勝っている。祝の舞でよろけて後ろへ倒れるのも誰よりもハッとさせかつ美しく、だからこそ「ハハハ」と力ない笑いが切なくひびく。
セリフの組み立てもていねいで、たとえば「また都から流人ばしあってのことか」の情感から「恋という字の」の明るさへの鮮やかな移り変わり、そこから妻・東屋への想いを語るへいたる一連の流れが秀逸。「おなじ罪、おなじ配所」で泣き言にならず力強く「この悲しみはあるまいもの」と言いながら、そこにあるのは理不尽への憤りと怒りである。だからこそ、手紙を投げ捨て頭を抱えて叫ぶ姿が説得力を生む。ふたたび「鬼界ヶ島の流人となれば」で髭をつかんで刀を地面につくきまりもあざやか。
この俊寛を輝かせているのが瀬尾を演じる中村又五郎である。ベリベリとした声のキレはなくなっているが、そのかわりにセリフの抑揚・陰影がこのうえなく見事で、役の深みが圧倒的にました。「役人のわがまま」「見ても見ぬふり」もたっぷり立体的で、のちのちのオウム返しがきく。豪快かつ上級武士たる貫禄貫目じゅうぶんだ。
その充実ぶりのおかげで、俊寛には目の前の瀬尾が憎き清盛入道のように見えているのではないかとまで思わせた。丹左衛門にとめられてもなお俊寛が瀬尾を殺すのは必然だったのだ。憎き政敵であり、自分をこのような境遇におとしめた相手であり、なんといっても愛妻を死に追いやった敵。その清盛と重なって見えた瀬尾を殺さずにおく選択肢があるというのか。そんなドラマが見えたのが新鮮であった。
ほかの役もそろっていてよい。中村歌六の丹左衛門基康は言うまでもなくはまり役で、又五郎の充実ぶりもあって最後の言い立てはスカッとする気持ちよさ。成経に中村萬太郎、康頼に中村吉之丞。千鳥の上村吉太朗はしばしば上滑りするがツボをおさえて好演。そしていつもながら葵太夫の竹本がよく、まるで能役者のような菊之助の身体にその言葉がまとわりつき、素晴らしい義太夫狂言に仕上がっていた。
休憩を挟んで『音菊曽我彩』で舞踊劇。
尾上右近の一万(曽我十郎)の目が覚めるほど鮮やかなまでの身体のキレのよさ、尾上眞秀の箱王(曽我五郎)の目を見張る成長ぶりも楽しめるが、なんといっても工藤を演じる尾上菊五郎のスケールのおおきさが見事。足腰が衰えているため腰掛けたままだが、年齢を感じさせないどころか誰よりも響き渡る豊かな大音声は説得力抜群である。
大磯の虎の中村魁春、朝比奈の坂東巳之助、そして先月の大成功に続いて女形がさまになってきた尾上左近の化粧坂少将などもよい。
昼の部ラスト『権三と助十』は岡本綺堂作の推理劇。よくできた喜劇だが、リアルな芝居だけに時代の古さを感じさせる冗長さがないといえば嘘になる。それが今月の舞台では中堅若手の奮闘により、古典的な世話物の味わいと引き換えに生き生きとしたテンポ感を得て面白くなっている。
なんといっても中村獅童の権三、尾上松緑の助十の現代的なセリフの応酬が、けっして上滑りすることなくよいリズムを生んでいるのがよい。配役を見た時には息が合うまいと思われたふたりだが、さすがになんどか演じてきた役だけにこなれている。権三女房を演じる中村時蔵の比類なき好演と、助八の坂東亀蔵のキッパリとした世話の芝居は、いずれも菊五郎劇団系の世話物の明るい未来を観るものにしめして上々吉。
ここで出色の出来と言ってよいのが中村吉之丞の演じる左官屋勘太郎。喜劇一色のなかに突如としてあらわれるシリアスな違和感。ていねいな口調のなかに込められた凄みと危うさ。この芝居のなかでもっともむずかしい役だと思うが、亡き師・吉右衛門そっくりの重厚な声と身体でそれらを見事に演じている。一昨年あたりから松緑一座のレギュラーとして重要な役を演じている吉之丞だが、これからもっとおおくの役を観たい役者のひとりだ。