黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『ピローマン』(新国立劇場小劇場)


数々の国際的な最優秀戯曲賞を受賞した名作『ピローマン』は、2003年に初演されたのちなんどか日本でも上演されてきた。今回は小川絵梨子の演出が新国立劇場の小劇場という理想的な空間を得て、充実した舞台になっている。第一幕と第二幕第一場までで休憩をはさみ、第二幕第二場と第三幕をつづける構成で、これはこれでドラマティックかつわかりやすい。

冒頭の目隠しをした作家カトゥリアンと刑事ふたりとのやりとりが、まずもってこの戯曲の普遍性かつ現代性を象徴している。

 「これ、誰にされたの?」

 「ああ、誰かに」

 「どうして取らなかったの?そのままじゃおかしいでしょ」

 「取っちゃいけないのかなって」

この目隠しをめぐる短いやりとりこそ、このとてつもない傑作戯曲のはじまりにふさわしい象徴的な会話だ。そもそもわたしたち人間は、価値観にせよ宗教にせよまた貨幣経済にせよ、なにかの「ものがたり」を受け入れなければ生きていくことのできない存在だ。しかしその「ものがたり」は捨て去ろうと思えばできたかもしれないものを、なんとなく消極的に受け入れてしまっているものにすぎない。「ものがたり」が「もの語り/騙り」であることをまぬがれないことは現代では自明の理だが、わたしたちが無意識に受け入れている「ものがたり」との距離感の異様さを、この目隠しのくだりは明確に提示している。

すなわちこれは「ものがたり」についての偉大なる寓話であって、けっして児童虐待やトラウマや暴力やまた歴史修正主義といったよくある現代的なテーマをえがいた作品ではない(もちろんそれらへの皮肉な視線を見ることは容易に可能だが)だろう。カトゥリアンが刑事に説明するようにそれこそ「意味がない」。第二幕第一場で彼が兄に語る本格ミステリの「叙述トリック」的な物語論は、どんな時代のどんな場面でもひそむメタ的な罠そのものだ。現代を生きることは「ものがたり」をまといつつ、つねにそれを疑いつづけることを要求される。したがってわたしたちは舞台で繰りひろげられる悲惨な叙述も凄惨な光景も、すべてを一歩はなれた客観的な目で見つめることになる。そしてその企みが終わりを迎えたとき、わたしたちの目を覆っていた戯曲『ピローマン』というべつの目隠しがやさしくほどかれ、素敵な余韻を味わうことになる。

小川絵梨子の演出はさすがにこの作品を知り尽くした演出家らしく、無駄のない場面転換と虚実をボーダーレスに見せて秀逸。最低限のシンプルな舞台が、いかに演じ手の仕事を浮かびあがらせたことか。彼女自身の手による日本語訳のセリフがきわめて自然でセンスに富んでいることもつけ加えなければならない。言葉遊びなども巧みに訳され、そのテンポのよさが観客の笑いを自然にさそう。

そしてなんと言ってもこの言葉の洪水を完璧に演じてみせた役者陣も称賛に値するだろう。ことにカトゥリアン役の成河、アリエル役の松田慎也の名演には舌を巻くしかない。


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