師走の歌舞伎座の第二部は『盲長屋梅加賀鳶』から。
梅吉と道玄を初役で演じるのは尾上松緑。梅吉は粋かどうかはさておき、きっぱりとしたセリフが江戸前で心地よい。ただ、木戸から説得に出てきたその姿がオロオロしているように見えるのはよくない。
とうぜんのことながら、松緑らしさが出るのは道玄のほうで、初役ということで期待して観たが、まだ未消化なように思われる。もちろん現在演じることのできる役者のなかでは唯一と言っていいほどぴったりな松緑のこと、姿も雰囲気もよくはまっている。だがこの陽気さと悪の暗さが同居する道玄という役のバランスがとれていない。「御茶ノ水土手」では軽さを作りすぎて役が浮いている。「道玄宅」においても「伊勢屋質店」においても、いやらしさを出そうとするあまりセリフの粘り具合がつねにおなじで単調になっている。この道玄に決定的に欠けているのは「間」である。「間」だけでおかしみを生むべきなのだ。「赤門前」の暗闇での鬼ごっこがもりあがらないのも、それにつきるだろう。現代人にも訴える暗さ、狂気とも言うべき危うさを内に松緑のこと、もっと悪に軸をおいてあたらしく自分なりの役をつくってほしいと期待してしまう。菊五郎や富十郎とは根本的にテンペラメントが違うからである。
たいする中村勘九郎演じる松蔵が傑作。「勢揃い」で若い衆を「いいな、いいんだな」と説得する有無を言わせぬ力強さ、引っ込みのあざやかさ。「御茶ノ水」での「ああ、あんまか」の世音の深さ。伊勢屋でのきっぱりとした裁き具合も完成度が高く、それでいて余裕さえ感じさせるのが道玄にたいして好対照。この硬派さこそが父親とはことなる勘九郎の持ち味であることは言うまでもない。日を重ねるごとによくなりそうな気配。
お兼を演じるのは中村雀右衛門。以前もそうであったが、気の毒なほどにニン違い。偽手紙を書かせるものを知っているほどのすれたところもなければ、道玄に「女房にする」と言われて喜ぶさまは若い娘のようだ。
脇に傑作がある。ひとつは道玄女房おせつを演じる中村芝のぶ。虐げられる女のあわれさが目をひく。乏しさのなかにもはかない美しさを感じさせるおせつははじめて。芝居のたしかさが、おせつをひとまわりもふたまわりもよい役にしたように思われる。もうひとつは坂東橘太郎の番頭。世話者の番頭役といえば現在では右に出るもののないベテランだが、今月はそれに加えて狡く嫌味のある人間のリアルがにじみ出ていて、ただの典型に終わらないのがよい。芝居をしすぎると壊れてしまうこういう役では、絶妙なバランスと言ってよいだろう。
休憩をはさんで中村七之助の『鷺娘』の一幕。白無垢であるあいだは徹底的に演劇的であり、引き抜いて赤の拵えになって以降は徹底的に舞踊的である。そこが耽美的な玉三郎の『鷺娘』とは印象がおおきく違う。幕切れにあるのも、美しい儚さではなく、絶望と言っていいほどに突き放した「死」だ。この「突き放した」というほどの冷たさが七之助の芸風であり、結果的に白鷺の姿をとおして、女性のリアルな運命を重ねてえがいてこのうえなく現代的で成功している。