夜の部のはじめは『熊谷陣屋』から。そもそもこの我が子の首を打って差し出すという凄惨な話を新年早々やる意味がわからないが、それはまた別のはなし。
熊谷直実は初役(といっても十年前にいちど代役で急遽演じている)の尾上松緑。花道から出て七三で数珠をしまってきまるかたちがよくおおいに期待させるのだが、そのあとがつづかない。前半の見どころである戦物語はセリフも所作もていねいすぎて間延びしている。どこをとってもテンポがおなじになってしまっていて、情感を込める部分が際立たない。平山への「おーい、おーい、おーい」も三度繰り返す効果がない。
二度目の出で首実検になると独特の面白さがある。まずは制札の見得のかたちがよい。担いだ制札と右足を伸ばしたその延長線のつくりだす広がりが美しく目を引く。「ただし直実あやまちしか」と言っているがこれは間違いか。むろん本文は「ただし直実過りしか」である。このあと義経にむかって首を差し出すかたちが独特。やや身体を奥向きに捻って首をやや斜めに傾けて義経に迫る姿がまずドラマティックだ。また奥向きなので御大将に「相違ない」と言われたあと、自然に顔を伏せることで表情が観客から隠れるのがよい。顔が隠れることで、見るものがその内面を想像できるからである。
三度目の出から以降は、落ち着きすぎていてやや平板。「十六年はひと昔、夢だ、夢だ」は泣かせるにはまだまだというところだが、幕外の引っ込みはシンプルながらじつに感動的。
妻の相模は中村時蔵。熊谷の「討死したらなんとする」や「手傷少々」という言葉にたいする反応は抑えられているが、その手傷は急所かと問うときに慌てることで、そのあとの熊谷のセリフとの整合性がとれる。首実検で「や、その首は」と慌てて駆け寄ろうとし、直実に制札で突き飛ばされる動きの驚くほどのスピーディさは段取めくことなくよい。受け取った我が子の首を、打掛にくるむでもなく、首桶の蓋にのせるでもなく、懐紙にのせるのも残酷さが際立って面白い。ついでに言えば、首を見せる角度も独特である。総じて時代者の立女形らしさよりも、母親としてのリアルさを前面に出した演じ方で、近年初役で演じた『吉野山』の定高のときのようにいかにも時蔵らしい。
この幕でもっとも傑作なのは、中村歌六の弥陀六である。近年はほとんど歌六の独壇場といった役だが、今回はますますメリハリのあるエッジの効いた演じ方をしている。義経に詰め寄るセリフのベリベリとした手強さは以前に増しているし、義経に頼みがあると言われて「面白い」と不敵に笑って弥陀六に戻るうまさも迫力がある。「これでちっとは虫がおさまった」の低く抑えた言い方や「一枝を切らば一子を切って……かたじけない」の気持ちの込め方もこれまでになく深い。鎧葛籠を背負って立ちあがったときに掲げた制札のかたちがよいのも秀逸。この幕のほんとうの主役は弁慶の書いた「一枝を切らば」の制札なのではないかと思わせる姿だ。背負った鎧葛籠(なかには助けられた敦盛が入っている)の重さはすなわち、身代わりになって死んだ小次郎の命の重さであり、その重さを制札がさ支えているというこの弥陀六の姿こそが、作品の不条理を端的にしめすものだからである。
近年は相模を演じる中村雀右衛門だが、やはり藤の方がニンに合っている。義経は中村芝翫。
『二人椀久』といえば雀右衛門・富十郎だというのは懐古的にすぎるだろうが、それはあまりに決定版と言うべきものであった。今月は尾上右近と中村壱太郎のコンビでの上演。きわめて技巧に長けたふたりの共演は、これは『二人椀久』のあらたな決定版になりうるかという完可能性を感じさせる。とくに「筒井筒」の濃密さ、終盤の狂乱とも言うべき畳み掛けるキレのよさは秀逸。海老反った右近の身体が崩れ落ちたとき、ここに拍手はそぐわないなと思わせる幕切れの余韻があった。彼らの芸質にあわせ、照明や大道具の大胆な変更もふくめてもっと磨きあげていってほしい。
忘れてはならないのは音楽面の充実。長唄囃子のいずれをとっても素晴らしい演奏が、この舞台を支えていたのは言うまでもない。やはり舞踊劇の成功如何は音楽の質に左右されるのだ。
最後は『大富豪同心』の歌舞伎版初演。初芝居らしい気楽な楽しさに溢れていること、センスよい演出でまとめられていること、なにより役者たちが楽しんで演じているのが伝わってくることがよい。あと十五分短ければ言うことないだろう。ラストは昨年の大河ドラマもびっくりの終わり方で笑ってしまった。