黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』夜の部B(歌舞伎座)

 

『仮名手本忠臣蔵』の通し上演の夜の部はBキャストを観る。

 

まずは「五段目・六段目」から。驚くばかりという言葉が軽くなってしまうほど、完成度の高い舞台。中村勘九郎の勘平はもちろんのことながら、まわりの役のほとんどがきわめて高水準。揃いも揃ったこれぞ大歌舞伎という出来である。
「山崎街道」の場。勘九郎の勘平は、あっさりと素早く笠を取って顔を見せるやり方。勘九郎の芸質からするとこれはこれでいいのだが、芝居としてやや意味が見えてこないのはもったいない。つづく坂東巳之助の千崎弥五郎とのやりとりは秀逸。このふたりの会話が、これほどドラマティックであるのは稀だろう。ふたりの武士のいまの立場、お互いへの配慮と探り合いという内面が、セリフの端々ににじみでてうまい。あたりが暗闇だということへの意識も徹底している。くわえて巳之助はまだ若いのに、この役を得意とする権十郎のような渋さがあってよい。
斧定九郎は中村隼人。もちろんまだ若いゆえに味や余韻というものは物足りないのだが、形をきちんとやることで生まれる美しさがよい。花道で向こうを見るときや、喀血時における腰をしっかり落とした姿がよく、昼の「道行」の勘平に劣らずこちらも見もの。
勘平の二度目の出になって二つ玉。雨にふたたび火を消された勘平が、定九郎に近づくまでのいくつものきまり。様式的に型をみせていくのか、芝居のはこびに重点をおくのか、役者によっていろいろことなるところ。勘九郎の素晴らしいのは、型を揺るぎなく(そのひとつひとつがじつに美しい)きめながら、それが演劇としての必然性をつねにまとい、芝居本位で動いているかのように見えることだ。型が型でありながら、芝居をおのずからまとっていくというのは、四段目での仁左衛門の由良之助に感じたものに近い。アプローチは違えども、令和の世にふさわしい現代の歌舞伎のあり方がここにもある。
「六段目」になってますます充実している。
花道から出た勘平が「狩人の女房がおかごでもあるめぇじゃねぇか」を時代に張って言うように見せて、すっぱりと言葉尻まで言いきる潔さ。「ご紋服を持ってきやれ」という言葉に込めた意味の重さ。「母者人、女房ども、その様子聞こうか」のかつてない高音の使い方がうまく、義太夫狂言での勘九郎のさらなる可能性も感じさせる。
この役者はやはり芝居が好きなのだと思わせたのは、財布をめぐる場面。縞の財布を見て愛想笑いをし、ふとその意味に気がつくイキのよさ。
「あの、四つ半」とハッと気がつき「軽。茶を一つくりゃれ」の時代になりすぎない言い方もうまい。財布をたもとから出しで見くらべる姿のよさは、彫刻かと思うほどの鮮やかだ。
腹を切って「いかなればそこ勘平は」からの述懐はリアルな表現を見せながら義太夫狂言のリズムを崩さないのがよい。ことに「色にふけったばっかりに」で自嘲のニュアンスを色濃く出しながら哀れをさそうのがうまい。その勘平の複雑な「心の内」は「ご推量」するにたやすいだろう。成仏をこばみ「敵討ちの御伴せいでなるものか」との悲痛な言葉もエッジがたっていて、作品本来のメインテーマをくっきりとうかびあがらせるのも見事。
おかるを演じるのは中村七之助。前半は派手なことはしないが、遊女として売られていくという事実に納得できていない複雑さがよく見えて秀逸。勘平との別れで「行くぞえ」「えぇ」「えぇ」と迫る別れの場は、よくやられるようにだんだん消え入るように言うのではなく、むしろ「さらばでのざんす」にむかってより強さが増す。それが勘平の「女房まて」「あい」につながっていく勘九郎とのアンサンブルも見事で心を打つ。
この幕の真のMVPは中村梅花の母・おかや。「あのお人は、あのお人じゃわいのう」のセリフだけで意味を幾重にも込めるうまさ。出ていくおかるに向けての「指など切ってたもんなや」に悲哀をにじませ、口に手ぬぐいを噛んで必死にそれを飲み込む姿は感動的である。与市兵衛の死骸が運び込まれるのをキョトンと眺め「死」という言葉に敏感に反応しつつ、つづく「なにをいやる、びっくりするわな」のセリフがみずからの不吉な予感を振り払うように聞こえるのが秀逸。与市兵衛の亡骸に泣きながらすがりついているのを、勘平のふと漏らした「とんでもないことをしてしまった」という言葉に耳をとめてハラでハッとするのもゾクッとするほどうまい背中の芝居。ひとつひとつ挙げればきりがないほど、細部まで埋まりきった名演であり、おかやという役をまたひとつ格上げしたと言ってよいだろう。
不破数右衛門は中村歌六。その風格といい情といい、規範的かつ理想的な数右衛門。「由良之助殿のご彗眼」に恐れ入ったと言いながら、その言葉がその場にいる勘平を突き放すニュアンスになっている。前段につづいて坂東巳之助の千崎弥五郎もよく、勘平への複雑な感情が入れ替わるのがきわめて明確に表現されている。

 

いよいよ七段目。この日の由良之助は片岡仁左衛門。暖簾から顔をのぞかせた姿の、なんとも言えない絶妙な酩酊具合がまずよい。本舞台へ降りる前に(観客がヒヤリとするほど)リアルに崩れ落ちるうまさ。茶屋遊びこそカットされているが、かえってそれがまたダレなくてよい。この場の柔らかな洒脱こそ七段目の由良之助の重要な一面であり、ほかの役者の追随を許さない無二なところである。三人侍や平右衛門をあしらう場面も、作り事というよりほんとうに面倒くさそうに見える。みずからの置かれた境遇に逆らわずにただただ身を任せて時を待っている、そんな由良之助である。うってかわって力弥との会話のミステリアスな空気感、斧九太夫との息のあったやりとりもさすが。
「九太にはもう去なれたかな」(「去なれたそうな」とは言わない)で釣灯籠の場面になり、おかると九太夫とのみごとな絵面。ちぎれた手紙を後ろ手に触ってハラで気がつき、手を前にして目で見て派手に驚くテンポのよさも心地よい。そして今回の仁左衛門の白眉は、このあとのおかるとのやりとりである。おかるに身請けしようと見せる愛嬌、かたやこの女の口を封じなければならないという覚悟。いくつもの複雑な要素を表現しなければならないむずかしい場面だが、ほかの役者と仁左衛門おおきくことなるのは、それらの表情がきわめてシームレスであり、いずれの想いも表裏一体に見え隠れすることである。「あのうれしそうな顔」といっを開いて顔を隠すそのきまった姿で、この場の不条理さをそのまま観客に見せて感動させる。目元の流れそうになった涙をぐっとぬぐって隠すリアルさも仁左衛門らしい。
おかるは六段目につづいて七之助。二階から見せた姿の絵のような美しさはじつに七之助らしい。平右衛門との兄妹のやりとりは、妹らしさが前面に出て現代的だが、七之助のセリフのうまさがそれを不自然に感じさせない。クドキは意外にもコッテリとしていてよい。「もったいなくも父さんは」を義太夫のテンポにおおきく抗いゆっくり言うのは、そのあとの「勘平さんは」を際立たせるうまいバランス。身体を存分に動かしてきっぱりと演じるのを見て、七之助のなかに祖父である先代の芝翫の面影を感じた。
平右衛門を演じるのは尾上松也。最初の出はそもそも奴に見えず、いささか空回りしている。ぐっとよくなるのはおかるとのやりとりから。こちらも芝居は現代的であるが、中身がきちんと埋まっている。たとえば「残らず読んだそのあとで」の三度繰り返し考え込むのも、きちんと疑惑と確証が変化していくのが見えてうまい。おかるとのじゃらじゃらした入れ事がダレないのも、役が埋まっているからだろう。現代的な芝居に見える反面、全体に吉右衛門を思わせる豪快なセリフを聞かせるが、松也にはやや合っていないように見え、声も無理をしていささか壊しかけているように感じる。
片岡亀蔵の斧九太夫は芝居がきわめてていねいで、たんなる典型の敵役におわらないのがさすが。役のもついやらしさをベースにしながら、由良之助の真意を探ろうとするハラが一貫していてよい。喜劇味をおさえてまで表現した、間者としてのサスペンスが仁左衛門の由良之助とよく合っている。
惜しみなく拍手を送りたいのが、尾上左近の演じる大星力弥。花道をサッと速足で入ってきた具合、身のこなしの柔らかさ、ニンにぴったりで好演。けっして美声ではないが、ていねいなセリフが凛と響き渡るのも好印象。

 

みじかい休憩を挟んで「十一段目」。毛色の違う実録風な討ち入りと、花水橋の引き揚げ。馬上から朗々と響く声で圧倒的な存在感をしめす、尾上菊五郎の服部逸郎がさすがの貫禄。足腰はともかく、この歳でいつまでも衰えないあの声量には驚くばかりである。

 


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