加藤健一事務所による『黄昏の湖』を観る。1981年度のアカデミー賞で主演男優賞や主演女優賞などを取った映画『黄昏』のもとになる、アーネスト・トンプソンの戯曲である。
アメリカの田舎にある湖畔の別荘に、ノーマンとエセルの老夫婦が避暑に訪れる。そこに娘と彼女のあたらしい彼氏、そしてその息子がやってくる。ノーマンと妻、娘のチェルシー、少年と関係がえがかれるひと夏のものがたり。いくらでもセンチメンタルになりそうな「老い」そして「家族」というテーマがそこにはあるが、西沢栄治の演出はできるかぎり湿っぽくならず、役者にライトに演じさせている。それがブラックユーモアの応酬を生かしたセリフ劇としての側面を浮き彫りにしている。
その反面、不自然なまでに不明瞭になったのが父と娘との関係性だ。加藤健一が演じるノーマンと加藤忍が演じるチェルシーのあいだがギクシャクしていることは知れるが、それがいささか表面的にすぎないか。チェルシーが母エセルに「あのうっとうしい性悪な男はわたしの夫なんだけど」と頬をぶたれる場面はあまりに唐突に見える。唐突といえばチェルシーが電話越しに父に「愛しているから」と和解の言葉をかけるのも、脈絡もなく観客が置いてけ堀になる。そのひとことを受ける加藤健一の「受け」のうまさによって芝居として成立させてしまっているのは役者のウデだが、いずれもそれまでのチェルシーの葛藤が見えていないためにおこった不自然さだろう。
加藤健一とエセル役の一柳みるのふたりだけのラストシーンは、さすがに見ごたえあり。食器の入った段ボール箱を落としたそのイキひとつで、劇場内の空気をあっというまに変えてしまう加藤のわざの見事さ。突き放したようなトーンで「死」について語る一柳のセリフのうまさは格別だ。
映画『黄昏』があまりに有名な古典的名作であるがゆえに、どうしてもそれとくらべてしまう。だがテーマや演出上のいくつもの差異も面白いが、映画版が「誰のまなざし」によって投影されたフィクションなのかということがかえって浮き彫りになった。
映画版はチェルシー役のジェーン・フォンダが、長年確執があった父・ヘンリー・フォンダのために映画化の権利を取得して制作したものだといわれている。言うまでもなく主役は老夫婦を演じるヘンリー・フォンダとキャサリーン・ヘップバーンだが、作品全体に父(あるいは彼女が見たいとおもう父)に向けられたジェーン・フォンダのまなざしが隠されており、本当の主役はチェルシー(というよりジェーン・フォンダ)とも言えるだろう。作者のアーネスト・トンプソンがこの作品を書いたのがまだ二十代だということを考えると、そのまなざしも(映画版が作者の意図とはさまざに違っていたとしても)納得のものだ。
そういう意味では、今回の舞台は徹底してノーマンの(というより加藤健一の)まなざしに貫かれている。認知能力に衰えを感じながらも、いつくるかわからない死を意識しながらも、加藤の演じるノーマンは変わることなく父でありつづける。放蕩息子の帰還のものがたりのごとく、結婚生活に失敗し家族を理解しようとしなかった娘の帰還を変わらず待っていた父のものがたり。映画とは正反対のまなざしがここにはある。