Dr. Holiday Laboratorの『想像の犠牲』(作・演出山本ジャスティン伊等)を観る。昨年12月にロームシアター京都で初演された舞台の、東京に場所をうつしての再演となる。初演は未見なのでそれとの比較はできないが、控えめに言って驚愕せずにはいられない傑作である。演劇というジャンルそのものへの自己言及が、これほどまで極限に問われた例はそうおおくないだろう。
とどうじにきわめて不親切な作品であるとも言える。それは『想像の犠牲』という上演中止になった作品を関係者が補いながら再構成していくといった、いくつにも張り巡らされたメタ構造をもつ複雑な台本のありさまだけが理由ではない。Dr. Holiday Laboratoryの前作にあたる『脱獄計画』やアンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』などといった、先行作品を知ると知らないとでは見えるものが違うのではないかと思わせるおびただしい引用が、その難解さに輪をかけている。
しかしそれでも本作の価値はすこしも失われることはない。本作は演劇すなわち演じるという行為の暴力性、不完全性をあばき、どうじにそのことによって原理的に生みだされてしまう犠牲について正面から問うている。わかりやすいモチーフとしてとりあげられている問題は、ひとつには戦争あるいはそれにまつわるジャーナリズムがあるだろう。またあらゆる場所(とりわけ演劇や映画やテレビというジャンルにありがちだ)で隠蔽されてきた性加害の問題でもあるだろう。そしてそれらをあいまいにすることなく(つまり注釈を加えることなく)あからさまに提示する。だがそれらのモチーフのあまりの重要性にもかかわらず『想像の犠牲』の成果はもっとほかにあるように思われた。
それは当事者性という問題である。手垢のついたカントあたりをもちだすまでもなく、わたしたち人間はどんな場合でも「ありのまま」を認識することができず、つねになんらかのフィルターをとおして選び解釈し置き換えることによって認識する。だとするならば、人間はあらゆる行為において都合のよい選択をしみずからの見る世界を「想像」によって「創造」する。そののこされた無名の混沌のなかに「犠牲」があるかも知れないことに無自覚なまま。『サクリファイス』のアレクサンデルが望むまま世界を創造するためにマリアという犠牲をなかったことにするように。
作品をつくり演じるという作為もそこから逃れられないが、この『想像の犠牲』は観客をもその渦のなかに巻き込もうとする。上演にあたって販売している台本を読みながら観劇してもよい、写真撮影をしてもよいというのは本作の本質につうじるのだ。観客は台本を片手に能動的に上演のクリエイションにかかわり、自分の意思で選択したシーンを記憶/記録すべくシャッターを押す。
こうして観客はみずからが当事者であることに気づかされるのだが、なおそこにおおきな絶望と欺瞞があることを突きつけるのが本作の成果ではなかろうか。その当事者性に気づかされた観客はそれでもなお、終演とともに席を立って去っていく。当事者性の自覚ということは、けっして救済の十分条件ではないということだ。共感という言葉でも解決しない問題がここにはのこる。ラストシーンでの土井のセリフがずっしりとひびく。
「この上演が終われば、あなたは言葉を忘れ、見たものを忘れ、知っているものを忘れる。また次の上演で、ひとつのからだとして数えられて、課外と陵辱への報復として、加害と陵辱がくりかえされる。それでもその〈分厚い了解〉から、今のあなたは、席をはずすことができる。だって、そうでしょう?」