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尾上菊五郎襲名も二ヶ月目。まずは『菅原伝授手習鑑』の「車引」で新・菊之助の梅王丸である。配役を見たときにおやっと思ったのは、桜丸ではなく梅王丸なのかということだった。いうまでもなく菊五郎家がそもそも桜丸をやる家であり、またまだ若年ということもあり和事味のある桜丸をやるのが穏当だろう。そこにあえて荒事の役である梅王丸を演じるということには、さまざまな意図があるのかもしれない。だがしかしどのような意図があろうと無謀であったように思われる。案の定菊之助は梅王丸の声を出そうとして、初日があけて三日目にして声帯に音声障害を起こしている。おそらく器用で耳がよいゆえに、過去の先達たちのイメージが明晰にあるのだろう。だから出そうとするのが、大人の声になりきる前の少年が出せるはずがない声なのだ。腰を落とした見得のかたちにハッとさせられる瞬間はありその才能は紛れもない本物なのだが、やはり荒事の型の面白さはその形の連続性にあり、若すぎる身体にはまだ負担がおおきい。この役をやらせる側に責任がある。
桜丸は上村吉太朗。本人も驚いたであろう襲名披露演目への抜擢に、みごとにこたえた好演。そのセリフはやや女形らしさが強すぎるように思うが、笠をとってきまった姿、花道を引っ込んで入っていく柔らかさなどは目を引く。松王丸は中村鷹之資。こちらも父親譲りのせっかくの声を無理して低くしすぎているが、きまった身体の形はさすが。藤原時平を中村又五郎が演じてようやく本格の「車引」になる。
「寺子屋」の松王丸は襲名した八代目尾上菊五郎。こちらも本来なら松王丸をやるようなキャリアではないが、菊五郎は菊之助時代から義父・中村吉右衛門の得意とする役に果敢に挑んでおり、昨年の三月にもおなじ役を歌舞伎座で演じたばかり。まわりの千代、戸浪も今月とおなじ配役であり、それについてはこちらに書いた。
https://www.kuroirokuro.com/entry/2024/03/17/133121
昨年の舞台では感じられた課題を、みごとに菊五郎は克服したようだ。試行錯誤であったものが、ひとつのあたらしい松王丸として結実した。たんに襲名が役者を育てるといったことではなく、菊五郎自身が真摯に作品に向きあい再構築した結果なのだろう。
菅丞相の一子・菅秀才の首実検をするために乗り込んできた松王丸。その出において「ヤァレお待ちなされ、しばらく」を調子を変化させずに言うやり方や、長台詞のなかで咳を入れる箇所は前回とおなじ。居並ぶ百姓にむかって「こりゃヤイ百姓めら」と力強く言うのもおなじだが、これがそれにつづいて「百姓どももグルになって、めいめいが倅に仕立て、助けて帰る」という言葉を家のなかに潜んでいる源蔵に助け舟を出すべく聞こえるように張って言う(それ自体はだれもがやる型だが)ところに、うまくつながっているのがわかる。百姓へ大声で呼びかけるのは、源蔵の注意を喚起する意味もあったわけである。
前回よりぐっと面白くなったのは、源蔵とのやりとり。前回は薄味であったここが、今回は凄味、嫌味が効いていてよい。セリフが明晰でありながら、その明晰さのひとつひとつが源蔵を追い込んでいく刃となる。松王丸としては(心を鬼にして)菅秀才の首(じつは我が子小太郎の首)を一刻も早く落とさせなければならないからである。そのような松王丸の「意図」を、今回はじめて感じたように思われた。つづいて戸浪を叱責しての「なにを馬鹿な」の大音声も豪快至極。特筆すべきは、家の奥で菅秀才(じつは小太郎)の首を刎ねる源蔵の声を聞いて、よろけるあまり戸浪にぶつかり「無礼者め」と右手で顔を隠してきまる形。右ひじをおおきく張ってきまるのが通常の型だが、今月の菊五郎はきまるようでピタリときまる瞬間がなく、あえてそのまま開かれた右手を握りしめて顔の前に持ってきて、咳をするような素振りを見せる。その(この段階ではあきらかにされない)衝撃の顔を戸浪や周囲の者たちどころか観客にさえ見せまいとする工夫なのだろうか、そこにハッとするほどのサスペンスが生まれた。
首実検ではやはりハラを割らないし「でかした」のひとこともつけくわえない。見せるのは検分が終わり顔を隠すように咳き込むその姿だけであるが、ここまで松王丸が咳き込んで顔を隠す姿をなんども意味深に見せられている観客には、それでじゅうぶんなのである。
そして今回の白眉は二度目の出で真実があかされる場面。まずもって立派なのは、我が子を犠牲にしたという衝撃の事実を語りながら、懐紙で顔を覆って泣くその瞬間まで泣く素振りも見せないことである。はじめから泣いてしまう松王丸が少なくないなかで、この強がった豪快さはいつもの菊五郎からは想像もできない怪演だ。横に座って泣いている女房に「泣くな」と三度語りかけるそのリズムと変化の妙。「ハハ、ハハ」と笑いあげる豪快さ。息子の最期を聞かされてふと口にする「あの、笑いましたか」のひとことがその場を変えてしまう支配力。兄弟・桜丸にかこつけてそれまで我慢していた感情がすべてはなたれて涙するその姿に、見ているものはみな深い感動につつまれてしまう。
これらすべては菊五郎の綿密な研究の成果であり、ひとつひとつの型を真摯に再検討した結果だろう。菊五郎が襲名の演目に音羽屋とはゆかりのないこの「寺子屋」を選んだのは、義父・吉右衛門の芸をこれからも継承していくという意思の表れかと思っていた。だがそれだけではないようだ。古典中の古典、傑作中の傑作であるこの「寺子屋」のような作品でさえ、現代の観客の共感を得られるような現代の演劇として演じるのだという決意だったのではないか。そしてその試みはみごとに成功していると言ってよい。
まわりの役も素晴らしく、とくに千代を演じる中村時蔵はもはや完成の域に達していると言ってもよい傑作である。今回はとくに千代が小太郎を寺子屋に連れてくる「寺入り」(通常はカットされその後から上演される)からていねいに演じていることもあり、より役の中身が満たされている。例をあげればきりがないが、たとえば小太郎を迎えにきた二度目の出において戸口で源蔵とかわす「ハハ、ハハ」の笑いと、そのあと自分を口封じのため源蔵が斬ろうとしたあとの「ハハ、ハハ」の変化の具合が絶妙である。前者は我が子の安否が分からないなかでの笑いであり、後者はいったん「まだ生きているのではないか」と希望を持った後での完全なる絶望の笑いだ。ほとんどの千代役者がそれは演じわけるわけだが、時蔵はそれを明確に演じながら、このうえなく美しく、このうえなく哀しい。忠義に生きる男たちの理屈の犠牲になった女の真実がそこにはある。このリアリティこそ歌舞伎である。この若さにしてこの至芸。脱帽するしかない。
武部源蔵を演じるのは片岡愛之助。まだテンポの重さやかたさは残るものの、昨年よりはるかに自然になった。声の高低のつかいわけが自在になり、そのことでやろうとしている役の内面がおのずと見るものに伝わる。役の内面という本来は古典的な歌舞伎とはなじまないそんな概念が似合うのも、松島屋流と言える。源蔵女房・戸浪は中村雀右衛門。さすがに長年演じただけに安定の好演だが、なぜかこの日は段取りに手違いがあったようだ。
まわりも揃いに揃って、たいへん見ごたえのある「寺子屋」であり、今後のスタンダードになりうる説得力のある舞台であった。菊五郎や同世代の彼らがいるかぎり、古典歌舞伎はまだまだひとのこころを揺さぶりつづけるだろう。
片岡仁左衛門と片岡孝太郎の「お祭り」で打出し。あいかわらず年齢不詳な仁左衛門の若々しい姿と、それに負けないくらい自然体でイキな孝太郎。重い演目の後に気持ちよく劇場をあとにした。