黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『セザンヌによろしく!』(せんがわ劇場)

 

第14回せんがわ劇場演劇コンクールにおいて、グランプリとオーディエンス賞を受賞したバストリオの作品の再演。一週間の公演が回をかさねるごとに評判になり、会場は満員の熱気であふれている。舞台はその期待にこたえるにじゅうぶんなものだった。

わたしたちは演劇を観るために、みずからの生活のなかのある時間を切り取ってそれにあてる。そして劇場という限られた空間へと身体をしばりつける。それは限定とも、収斂と言ってもよいだろう。だがこの『セザンヌによろしく!』ははじめから拡散している。

観客が劇場に足を踏み入れると、そこにはいっけん無秩序に散らかった小道具たちが点在している。下手にはいくつもの服が畳んで置いてあり、またハンガーにかかったワンピースがいくつも吊り下げられている。その近くには植物やマイク、カメラ、ライトの類にかこまれたちいさなテーブル。おもむろにドラムセットが運びこまれれたり、ジョーゼットの布が張られた幕があるかと思えば、やがてそれは持ち去られる。舞台中央にはやがて透明なキューブが置かれ、そこには水が注ぎ込まれる。

開演時間になり前口上、そしてドラムスティックについての蘊蓄から舞台ははじまる。そこではドラムやリード楽器の演奏、特徴的な舞踏、メタな言及を随所にもりこんだセリフが混じり合いながら舞台をつくりあげていく。それらはなにかの表現に収斂していくというよりも、拡散したままそれぞれの表現が重なりあって存在しているように感じられる。なかでも目を引くのが、前述のちいさなテーブルのうえで描きつづけられる黒木麻衣のドローイング。黒木がその場で次々に描く線画は、傍らのカメラをとおしてホリゾント幕につねに投影される。その線がときには山々となり、空となり、またあるときは心電図の波形となる。

作品なかばで粘土かなにかを捏ねながらかわされる会話にあらわれる「AとBがおなじだ」というパターンのセリフが印象的だ。それはわたしあなたであったり、わたしと山であったり、さまざまな変奏をもってくりかえされる。そのあたりから言葉が明確な熱をもって響きはじめる。拡声器をとおして切実に叫ばれるたびに、「絵」も「音」も「人」も「山」もそれぞれがべつの存在でありながら、ひとつに重なりあっていく。さまざまなものが舞台というひとつのフィールドのなかで無限に拡散しながらひとつの曼荼羅になる、宗教的寛容とも言ってよい恍惚の空気が感動的だ。ホリゾント幕に投影された「セザンヌたち」という言葉のとおり、セザンヌたる存在が無限に世界にひらかれていくのである。

だからこそ、そこでパレスチナやウクライナといった戦場になっている国の名前が叫ばれるのには違和感があった。それらの固有名が、拡散し敷衍した光を限定的なものにしてしまう。ひろがっていたあの恍惚が、固有名によって限定的な視線に収斂してしまう。幕が引かれるその瞬間に突如として国旗がひるがえるのにもハッとした。

 

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