黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

尾上菊五郎襲名ふた月めの夜の部は『暫』からはじまる。鎌倉権五郎を演じるのはもちろん市川團十郎白猿。なんども演じている役だが、今回はいっそうその立派さが際立つ。歌舞伎座の間口は歌舞伎を上演するには広すぎると感じることは少なくない(南座などは理想的な間口だろう)が、この團十郎の『暫』はこのあまりに横長になりすぎた歌舞伎座の舞台をみごとに埋めている。

まず第一に鍛えあげられた團十郎の身体が、鎌倉権五郎の異形なる拵えをものともせず、信じがたいほど美しくきまること。また第二にますます自然な発声になってきた團十郎の声が、のびやかに劇場に鳴り響き観客を圧倒すること。もうひとつつけ加えれば、馬鹿馬鹿しいまでのこの古風な劇が、現代の観客におおいに受けているということだ。それは團十郎の存在が近代的・現代的な理屈を超越しているからである。極端に意味が剥がれおちたその顔と身体が、まさに祝祭劇としての『暫』を軌跡的に成立させている。この演目は事実上市川家のほぼ独占状態だが、いまほか役者がやれるとは想像できない。先月の『勧進帳』の弁慶といい、歌舞伎十八番における團十郎の充実ぶりは眩しいばかりだ。

中村芝翫の清原武衡、中村梅玉の加茂次郎、中村魁春の桂の前、中村鴈治郎の鹿島入道震斎、中村雀右衛門の照葉ら、まわりは堅実かつ豪華な面々。なかでも市川右團次の成田五郎が傑作で、これまで以上にきっぱりとしていて、手強さとコミカルさを兼ね備えている。また、日吉小間蔵の大薩摩が、流麗でありながら力強く聞きもの。

 

襲名披露口上は先月同様にあいさつの人数を絞ったシンプルなもの。なかでもやはり七代目の堂々とした存在感が随一。こういった簡潔な口上は大賛成だが、なぜこの役者が列座しないのかと思うところも。菊之助の声帯は治るどころか悪化しているようす。声変わり前の子供の声帯の扱いを間違えると、一生後悔する場合もある。歌舞伎の世界はそこにやや無神経な気がするがいかがなものか。

 

襲名演目は『連獅子』で、新・菊五郎と新・菊之助が踊る。菊五郎の右近/親獅子は、昼の松王丸とはまったくことなる菊五郎本来の特質をよくあらわしている。『寺子屋』の松王丸では菊五郎にしてはめずらしいほど演劇的であり、かつそれが緻密な計算に基づいているものであった。この『連獅子』では舞踊「劇」であることをいったんカッコに入れ、まるでコンテンポラリーダンスを思わせるような突き放した冷たさが特徴的。菊五郎はことに能がかった作品において、端正ななかにウェットな膜をまとった独特の雰囲気を見せる役者だ。それが面をつけた能役者のような彼の身体性につながるのだが、ここでもそれを感じずにはいられない。その演劇性を超越した身体が、かえって観るものにドラマを想像させるという不思議。團十郎とはまた違った意味で、菊五郎もまた現代の歌舞伎の可能性をおおいにひろげる役者なのだとあらためて思われた。

菊之助の左近/子獅子が、なかなかの充実ぶり。十一歳という年齢から考えられるそのはるか上を目指して必死に踊る姿が、子獅子の役と重なる。それでいてかたちが端正で崩れず、気振りも力任せでないのがよい。

 

『芝浜革財布』は有名な落語の『芝浜』をもとにした作品。もとの落語はいまさら言うまでもないほどの名作であり、さまざまな名人によって数えきれないほど名演が生まれた。しかしおなじく落語から歌舞伎化された『文七元結』などにくらべると、この『芝浜革財布』は作品としてあまりに見劣りがする。それはことごとく台本構成上のいくつもの問題による。

まずもって落語はもちろん映画でもあるまいに、無駄な場面転換がおおすぎる。そのうえそれらはおそろしく間延びした暗転によって区切られており、ことごとく観客の集中力を削ぐ。また話の設定に無理がある。芝浜で偶然財布を拾った政五郎は、調子に乗って酒盛りをしたあげく寝てしまう。この支払いはどうするのかという女房お辰の問いに政五郎は「おめぇに財布を預けたじゃねぇか」と言う。それにたいしお辰は「あたしゃそんなもの知らないよ」と答えるのが一度目。政五郎は昼寝をしてしまい、そのあいだにお辰は財布を預けられたことを思い出し、通りかかった大家に相談。昼寝から起きた政五郎が、借金なら預けた財布から払えばいいと言うのに「あたしゃそんな財布知らない」としらを切るのが二度目。この一度目と二度目の差があまりにもわかりにくく、それを役者の芝居にゆだねるのは酷だろう。しかもお辰は政五郎が「昼までずっと寝ていた」から財布を拾ったのは夢だろうとごまかすが、昼までずっと寝ていたのなら「じゃあ鐘を拾ったのは夢で、酒盛りをしたのはほんとか」とはへんな話だ。あげくの果てに人情噺のなかでも際だって優秀なサゲである「また夢になるといけねぇ」をカットして、かわりに例の金を寄進しようという陳腐な結末に置き換えてしまう愚行。

それでも今回の『芝浜革財布』は、そんな如何ともしがたい作品の欠点にもかかわらずなかなか面白い。政五郎演じる尾上松緑がいかにも役に合っていて、芝居がはまっていること。中村時蔵の情感あふれる女房お辰をしっとりと好演していること。そして酒盛りの場面での坂東彦三郎、坂東亀蔵、中村吉之丞、中村松江らの会話のテンポがよくダレないことが理由である。

演じる役者によってこのようにまだ面白くできるし、せっかくの名作を原作としているのだから、思いきって台本を整理して演出をあらためてほしいと思わせる作品である。