終のすみかによる、過去に上演された二作品をあわせて再演するという企画。作・演出は坂本奈央。いずれも限られた人物たちの会話が織りなす傑作である。そのセリフはときにリアルなノイズをともなうのだが、それが突如として古典的と言ってもよいリリカルな美しさをまとったものになるのが印象的。きわめて誠実に書かれた言葉が、きわめて誠実に演じられた舞台に感動した。
『I'll BE OKAY』に登場する役者は大石将弘と高橋あずさのふたり。だが登場人物はふたりではない。ものを失くしがち(ものをよく失くすというのがまた端的でよいメタファーなのだが)なカキヤという名前の男と、彼の友人の妻であるミサキがメインだが、そのほかにもいくにんかの人物が登場する。それはべつにめずらしくはないが、カキヤを大石と高橋のいずれもがかわるがわる演じ、その相手となる役をもう一方が演じる。はじめは不思議な違和感に驚くが、これがじつに効果的でだんだんと巧みに引き込まれていく。役を入れ替わるという演技上の行為が、そのまま作品のテーマとかかわっているのが面白いからである。
ひとは誰かとコミュニケーションをとるときに、なんらかの役を演じている。だがいつもおなじペルソナを演じているわけではなく、意識的にか無意識的にかを問わず相手に応じてそれを切り替える。複数の役を複数で演じわけるというこの作品の構造が、それをおのずとあきらかにしているのである。そしてカキヤが友人の妻であるミサキとなぜかふたりきりで同居しているというコメディドラマにありそうな異様な設定のなか、この「どういう役柄で相手とコミュニケーションをとるか」という、探り探られるこころの(雄弁ではない)ドラマが観るものをたじろがせる。
演じている大石と高橋の演技もすてきだ。特筆すべきはふたりとも声にえも言われぬ魅力があること。ふたりが後ろむきに長ソファに座って映画を見ている場面の会話のリアリティはその声ゆえだろう。ミサキが夫に出ていかれたことを告げる場面のシンプルな美しさが、高橋の声ひとつで舞台にひろがるのも圧巻。
『Deep in the woods』はいろいろなものが「壊れる」作品だ。乗ってきた車が故障し、プロジェクターが動かなくなる。もちろんそれは重要ななにものかが「壊れる」ことにつながり、『I'll BE OKAY』においてカキヤがいろいろなものを失くすことともパラレルである。
作品スタイルとしては現代口語演劇の典型とも言うべきもの。人里離れた田舎の家のなかという舞台、交通手段が絶たれある意味強制的に家のなかという閉鎖的な空間に閉じ込められるという設定など、まるで本格ミステリーのようなシチュエーション。なにより重要なポイントは登場人物が三人であるということだ。二度の暗転を挟むために三つの場に割られているとは言え、三人の登場人物はつねに舞台上に存在し誰かがその場からハケるということがない。一般に登場人物が三人である場合、そのなかの誰かがふたりきりになるときドラマが動く。その組みあわせによって人間関係や立ち位置がことなり、それが多重的な構造を生むからである。だが今作はいま述べたように幕開きから幕切れまで三人は一緒にそこにいる。それが効果的で、たがいに距離をさぐりあいながらの微妙な関係性を生むことに成功している。実際に、友人であるはずの三人のあいだには始終危ういアンタッチャブルな空気が流れつづける。やはりこの作品も他者とのコミュニケーションの絶望的な不完全性に悶えているのだ。
その三人を演じるのが、武田知久、串尾一輝、田崎小春という実力者たち。別荘の家主シノダを演じる武田知久のうちに秘めた重たさを絶妙に見せる圧倒的な存在感。
編集者サトウ役の田崎小春と精神科医アオキ役の串尾一輝は、そのワザが光る緻密な演技でまこと一流のクオリティに感服するばかり。
この作品で真に「壊れる」ものはなんだったのか。それは幸せであったはずの家庭なのか、友人との関係性なのかなのか、それとも……。そしてそれは「壊れる」ことをまぬがれたのか。どうしてよいかわからない存在へのセンシティブな距離感に戸惑いながら、しかしいかようにも開かれたラストシーン。この舞台は、あのように断ち切るかのごとく乱暴に終わらせられなければならなかった。作・演出の坂本奈央のそこしれぬおそろしさを感じながら劇場をあとにした。

