小田尚稔の演劇『国/家』の新作初演。三日目を観る。ひさびさに小田尚稔の演劇に接したが、あいかわらずのすてきな朴訥さのなかに、またひとつあたらしいメタ演劇論的なおもしろさを感じさせる舞台であった。
タイトルが『国/家』であることは、さまざまな意味で必然であったのかもしれない。国家ということばが「/」によって分断されているという、その表記そのものがまずおおくを語っている。国と家という、それぞれがある共同体をあらわす一文字の単語であることも重要だ。またそのタイトルはプラトンの代表作を思い起こさせるが、プラトンにかぎらず広義の古代ギリシャ哲学における国家というものへの距離感というものを考えずにはいられない。たとえばソクラテス、プラトン、アリストテレスらによれば、国家とは善き市民にとってアイデンティティの一部である共同体だ。だがヘレニズム期を迎えると、ストア派やエピクロス派にとってはその興味は個々の人間の内面の問題へとうつる。彼らにとって帝国たる共同体は、もはや個人のかかわりによってなにか変えていけるようなものではなくなったからであるが、それでもやはりわたしたちは共有の一員であることから逃れることはできない。
小田尚稔のつくる舞台は、その初期においてはきわめて限られた人数の俳優によって、静かなるつぶやきとも言えるモノローグによって構成されていた。それがあるときから出演者数が増え、会話が増え、舞台をいろどるオブジェも増えた。たどたどしく途切れがちなつぶやきが、ときに激情的な内面をさらけだす声になることもあった。今作もそんな小田の世界の変化の延長線上にあり、過去作以上に俳優たちは饒舌な印象を受けた。
そこでかたられるのはさまざな共同体とそこからの逸脱だ。戦争をしている国境地帯。捨て猫を拾い育てる女。孤児たちがつどう施設。こどもを事故で失ってしまう母親。爆撃音と花火。それらがパラレルに重なりあいながら演じられていく。他者との関係性のなかで生きていくことがうまくいかないものたちが、しかしなお真摯にコミュニティへ向き合おうとする姿。だがその試みはときに加害となり、自傷にもなるという切実なものがたり。だが真に饒舌であったのは、舞台の俳優ではなかったのかもしれない。
舞台はアクティングエリアの上手寄りにおおきな長机のようなものがあり、そこはいくつのワイングラスと食器、そしてファーストフードの紙袋などで埋めつくされている。小田尚稔の代名詞のひとつとも言える木製のコート掛けは姿を消し、そのかわりに下手奥にはおおきな劇場のクロークにあるような鉄製のハンガーラックがあり、そこにはやはり無数の服や傘が掛けられている。これらはいうまでもなく社交の場、他者とのコミュニケーションの場である空間を演出するものである。
そしてなにより会場を特徴づけるのが、舞台の「むこう側」である。会場の表側の全面がガラス張りで目の前の小路が丸見えなのだが、それが道路にむかって座っている観客から観ると背景になっており、この作品世界の「外」に無数の通行人が歩いているのがつねに見えている。この背景たる「外側」こそ、この上演でもっとも饒舌であった存在であることは間違いない。無関心に通りすぎる若者。なにをやっているのかと興味津々に立ちどまって覗きこむ会社員。どんな人物なのかと思わず考えてしまうほど雰囲気をもってゆっくりと歩く老人。それらはしばしば劇中の演技よりも観客の関心を惹き、「図と地」が反転したかのような瞬間もすくなくなかった。これについては賛否両論あるに違いない。
だがそれでもやはりこのノイズが今作の重要な要素であり、この奇妙な現象こそこの『国/家』という演劇の本質であると言える。なぜならば演じる俳優とそれを観る観客というのもひとつの空間と時間を否応なく共有する「共同体」であり、その「共同体」もまた他者である外部から見れば異質な他者だという、しごくあたりまえの関係性がこのうえなく明確に成立しているからである。ガラス張りの壁(あるいはしばしば開閉されるガラスの自動ドア)という境界線をうかびあがらせたこと、それが今作における小田尚稔の演劇のおもしろさである。