黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

Noism0+Noism1 『アルルの女』 / 『ボレロ』(彩の国さいたま芸術劇場)

 

Noismの彩の国さいたま芸術劇場公演初日を観る。今回はビゼーの名曲『アルルの女』と、あまりに有名なラヴェルの『ボレロ』という組みあわせ。振付は金森穣。

 

まずは『アルルの女』がおそろしいまでの完成度をたたえた傑出した舞台。細部までそのセンスがいきとどいた古典的ともいえる演出は、一瞬たりとも不明瞭なところがない。それでいてきわめて現代的なテーマを浮き彫りにしている。

農家の息子フレデリは「アルルの女」にこころを奪われてしまう。いったんは許嫁のヴィヴェットの献身的な愛をうけいれ結婚をするが、その夜「アルルの女」がほかの男と駆け落ちするという話を聞き、嫉妬に狂い機織り小屋のうえから身を投げて死んでしまう。このドーデの戯曲のおもしろいのは、タイトルロールたる「アルルの女」がいちども舞台に登場しないことである。金森はこれをさらにひねって、フレデリの母親ローズを主役にし、彼女の視点からドラマを再構成する。「アルルの女」は母親から見れば溺愛する息子を奪ってしまう存在になるのだ。これが現代的というところで、共依存関係にある母と息子、その関係からこころみられる逃走という、心理ドラマが浮き彫りになる。舞台に登場しないはずの「アルルの女」を冒頭で母親に演じさせるのもよい。

その意図はシンプルかつ効果的な舞台装置にもあらわれている。いくつも登場する「枠」はコミュニティを表すものだろう。それはときに家族を囲み、親子をしめす。舞台の最奥に縦型にしばしば現れる額縁のごとき「枠」は、それを見つめるものがひとつになりたいと欲望する、妄想のむこうにあるかなわないコミュニティだ。がまたプロセニアム全体を覆うように設置されたもっともおおきな「枠」は、この舞台となっている農村というコミュニティである。有名な「メヌエット」が演奏されるなか、絶望したものが、このおおきな枠を越えて死を迎える。「使われない」オーケストラピットの使いかたも効果的。(ただし、音楽の鳴っていない瞬間にセフティマットに着地するドスンという音が響くのは興ざめだが)

すぐれたアンサンブルを見せるNoismの面々はいずれも達者で素晴らしいが、やはりというべきか母親を演じる井関佐和子が傑作である。その鍛えぬかれた身体からたちあがる美しさ、舞踊家としての枠をとうに超えた女優としてのエモーショナルな表現は群を抜いている。

 

休憩をはさんで『ボレロ』になる。とうぜんのことながらより抽象的な表現で、赤い衣装に身をつつんだ井関とそれを囲む魔女のようなアンサンブルによる群舞。しだいに拡散し、ズレをともないながら反復され激しさをましていく。黒い衣装はしだいにとりさられ、大黒幕を飛ばしてのラストのカタルシスまで見ごたえたっぷり。だがそうなると井関のソリストとしての特権性が、後半悪い意味でめだってしまうようにも思われた。


f:id:kuroirokuro:20250711092459j:image