納涼歌舞伎は今年も恒例の三部制。その第三部の『野田版・研辰の討たれ』を観る。故・十八代目中村勘三郎が演出家・野田秀樹とともにつくりあげた舞台であり、今月は中村勘九郎がはじめて父の演じた守山辰次を演じる。まわりの役も一世代めぐってあたらしいキャスティング。
この『野田版・研辰の討たれ』は、言うまでもなく「アンチ忠臣蔵」がそのメインテーマである。歌舞伎と言えば『仮名手本忠臣蔵』と言えるほど有名なそれは、赤穂浪士の仇討ちに熱狂した庶民の欲望にこたえるように作られた古典中の古典だ。理不尽に耐え忍びながら、主君・塩谷判官(浅野内匠頭)の恨みを晴らさんがため、宿敵である・高師直(吉良上野介)を討ち果たす浪士たちとその周辺のひとびと。極限までみがきあげられたそのものがたりは、もはやひとつの様式美と言ってもよい。そして歌舞伎には『忠臣蔵』だけではなく、時代物にも世話物にもおおくの仇討ちものが存在する。極論ではあるが、歌舞伎とは定期的に仇討ちをえがくことで、仇討ちが許されない庶民の欲望の息抜きをしていたとも言える。『野田版・研辰の討たれ』が「アンチ忠臣蔵」であるとすれば、それは「アンチ歌舞伎」でもあるのだ。
もちろん歌舞伎演目には『義経千本桜』などのように、復讐の連鎖の悲劇を思わせるものもある。だが『野田版・研辰の討たれ』は、仇討ちという行為そのものから意味と価値を剥ぎ取って観客の眼のまえにさらけだしてみせる。そうであればあるほど、無意味である仇討ちに無責任に熱狂する庶民の恐ろしさを際立たせることになる。じっさい『野田版・研辰の討たれ』の大詰で、それまでコメディのモブキャラであったはずの人々が、一瞬にして残酷な大衆に姿をかえてしまうとき、人間の狂気をまざまざと見ることになる。分断化がますます深刻化し、他者への想像力がうしなわれ、手のとどかない海の向こうの戦争に一喜一憂する「いま」にあって、ますます重要なメッセージをはらむ作品であると言える。
勘九郎の辰次は父・勘三郎のそれとはいっけん似ているようで、まったくことなる人物をつくりあげており、それがいま述べたような作品の姿をより明確化している。まず勘三郎にあった愛嬌というものが勘九郎には決定的にない(もちろんそれが悪いとは言っていない)ために、辰次が最初から最後まで観客に無条件に愛される人物ではなくなっている。勘三郎の愛嬌に代わるものが、勘九郎の圧倒的な身体能力であるが、キレのある勘九郎の動きが極まれば極まるほどに、その身体は内面の剥がれおちた無機質な「モノ」になっていく。それこそが勘三郎のときにはけっして見られなかった勘九郎の特質であり、今回の舞台を一級の現代演劇たらしめているものである。
まわりの役も素晴らしくアップデートされている。中村七之助の奥方萩の江と娘およしの二役はいずれも完成度が高い。ことにおよしは、その非人間的ともいえる冷たさとコミカルな愛嬌がバランスよく共存しているのがみごと。こういう役をやらせたら右に出るものはいないだろう。その妹おみねを演じるのは坂東新悟。七之助のリズムによくついていって好演だが、新悟らしさというなにかをもうひとつ期待したい。
市川染五郎の九市郎と、中村勘太郎の才次郎。市川中車の番頭友七は、伝統的な番頭役とはまたちがうひとつの典型を形づくっていて好演。良観和尚を中村扇雀が演じていて女形に気の毒なと思ったが、なかなかこれが滋味あふれる名演。ただし出入りが二度とも大道具を乗り越えておなじ下手奥からなのだが、もうすこし効果的なやりかたがあるだろうにとも思う。
特筆すべきはラストシーンでの音楽(マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲)のバランスが絶妙であること。新作の舞台では音響の過剰さに閉口するが、このかすかにすすり泣くようなメロディが素晴らしくせつない。そのかすかさのむこうに重なり見えるのは歌舞伎の世界を超えた、古今東西の復讐劇のむなしさである。
