『菅原伝授手習鑑』通しの夜の部も、Aキャストの日を観る。
「車引」は高麗屋三代の共演のひと幕。藤原時平を演じる松本白鸚。足が不自由かつ手の動きなども制限されたなかでの時平だが、その存在感といまだ劇場に鳴りひびくセリフで圧倒的。
左近の桜丸はじつに正統、所作の美しさといいセリフといい、かなりの小柄ではあるのに舞台で映えている。松王丸の松本幸四郎と梅王丸の市川染五郎は、荒事というには腰が高くかたちがきまらず。
「賀の祝」の桜丸は初役で演じる中村時蔵。さぞぴったりだろうと思いのほか、意外に地味で存在感にかける。もともとしどころのすくない難役ではあるが、取りすがる妻・八重へ気持ちが行きすぎたり、「梅、松」といって折れた桜の枝に気がついて「桜」と言いつなぐその反応が表面的すぎるため、役が浅く見えてしまう。
白太夫はこちらも初役の中村又五郎。八重の持ってきた三宝や、折れた桜の枝に気がつくその思い入れが、こちらもいささかわざとらしい。梅王丸と松王丸への叱責はぐっと突っ込んだ芝居でうまいが、基本が好々爺に見えて白太夫らしさが希薄。我が子・松王丸を追い出したあと「親の顔が見てみたいわい」と口を手にあて空気を変えるが、その手をだらりと下げてしまうので気が抜ける。
八重は中村壱太郎。時蔵の桜丸とはあまり合っていないように思われるが、義太夫狂言らしくこってりとかつ可憐で好演。
「寺子屋」はここまでのいささかの低調ぶりを払拭するかのように充実している。
まずは尾上松緑がメリハリのきいた独特の松王丸を演じているが、数年前と設計図はおなじであってもより徹底していてよい。最初の出は「やあれお待ちなされ、しばらく」ではなく「ああいや、お待ちなされしばらく」のセリフ。「おろそかには」のあとに咳。戸浪とぶつかっての「無礼者め」の見得は、右肘をおおきく張った豪快なもの。首実検では「源蔵どの、よくうった」で右手は挙げずに首桶に置いたままであるのも前回とおなじくよいかたちである。首実検を終え戸口を出たあと、たいていの役者は戸を閉めたあと裏向きになってやや見上げてきまるが、松緑は戸口になかば寄りかかるように身体をねじって客席へ顔を見せる。そのハッとするような異様さが、松王丸のひたかくしにした内面をのぞかせる。この前半部で特筆すべきは、とにもかくにも敵役に徹しているということだ。それも内面を隠した敵役ではなく、まるで赤っ面のようなベリベリとした敵役である。前回はそれがぐっとおさえた調子のなかで演じられていたが、今月はその熱量がすさまじい。
後半の出は、菅丞相の歌の下の句「なにとて松のつれなかるらん」まで源蔵に読ませて「女房喜べ」といって入ってくる。この後半は犠牲となった子供の父親としての正体をあらわすわけだが、今回はとにかく若い父親としてのリアルさを前面に出して演じている。我が子の最期を聞いて「笑いましたか」とたずねる、その声にならない声のせつなさ。泣き笑い以降の豪快さ。声に破綻が出ているところもあるが、この延長線上に松緑ならではの松王丸が生まれるのを楽しみにしたい。
松緑に勝るとも劣らず素晴らしいのが松本幸四郎の武部源蔵。もうなんども演じている役であるという以上に、もはや源蔵という人物そのものになっているはまり役。「立ち返る主の源蔵」の竹本で花道を出るその空気感がまず秀逸。今月はとくに戸浪との前半のやり取りから首実検にいたるまでが精緻をきわめている。これは前半の松王丸が敵役に徹していることも無関係ではないだろう。前半の主役は完全に源蔵だと言ってよい。寺入りした小太郎の顔を見てからの変化、「ことによったら母もろとも」と決意する強さ、首桶をかかえて戸浪を振り返ったそのイキのよさ、助かった菅秀才ににじりよるリアルな足取り。あげればきりがないが、これだけの源蔵はほかにいないだろうという完成度。
戸浪は片岡孝太郎。松嶋屋らしい心持ち本位なリアルさが徹底していながら、義太夫狂言らしいコッテリさと流れるような身体の美しさが孝太郎らしい。ずいぶんひさしぶりに演じたようだが、こちらも現役では一、二という当たり役だろう。春藤玄蕃は坂東亀蔵。赤ッ面らしいベリベリした声ののびもよいが、なんといっても松緑の松王丸のセリフにぴったりとリズムを合わせるアンサンブルのうまさが抜群。
松王丸女房・千代は中村萬壽。今回は小太郎をつれてくる「寺入り」からなので、千代という役の心理がよくわかる。それにふさわしく自然でリアルな演じかたが萬壽らしくてよい。小太郎との別れの濃密さや花道への引っ込みは、ややハラを割りすぎなのではというくらいわかりやすくこころを揺さぶられる。二度目の出になって、ここまで戸口に縋りつくように「ここをお開けくださいませ」と性急に言うのをはじめて聞いたように思う。源蔵に切りつけられそうになって、いちどはもってしまった我が子生存の希望がガラガラと崩れていく絶望の深さ。
「寺入り」といえば中村吉之丞が演じている下男がよい。涎くりと繰りひろげる物真似ミニコントだが、女形のそれをきちんと真面目に写しているのがかえって面白い。技術の確かさを垣間見る思いだ。
