ヨン・フォッセの『だれか、来る』が三鷹のSCOOLで上演された。演出は批評家としてさまざまなジャンルを横断的に活躍してきた佐々木敦。休憩なしの二時間半というステージである。
『だれか、来る』の戯曲としての構造と、そこでおこっていることはきわめてシンプルだ。他者とのコミュニケーションを断ちきってこの地にきた「彼」と「彼女」が、ふたりきりでいられる場所として海辺の古い家を購入し住むことになる。ふたりは「だれか、来る」のだと漠然とした不安を感じながら、その家に足をふみいれる。そこに家を売った「男」が訪ねてきて「彼女」に執拗に話しかけるのを見て、男は嫉妬とともにつよい不安を感じる。その家には「男」の死んだ祖母のかつて住んでいた痕跡が、あちらこちらにのこされている。過去と不安から逃れてきたはずの「彼」と「彼女」が、やむことのない不安にここでもつつまれる。みずからに言いきかせるような「一人は、二人」という「彼」のつぶやきで戯曲は終わる。
たった三人の登場人物によって、まるで詩と言ってもいいようなフレーズがつぶやかれる『だれか、来る』は、言葉のちからを借りた不安と嫉妬の心理劇というべきな内容だろう。だがその心理劇としての側面は、今回の上演ではあくまで結果として浮びあがってくるものである。まずもってこれは徹底的に音楽劇であり、かつ視線による空間劇であるように思われた。
開場時からながれているガムラン系の音楽が鳴りやむと、そこにあらわれるのはゆったりとしたテンポで発話される断片的なセリフ。みじかいフレーズのくり返しは、まるでオペラのリブレットのようだ。そして頻出する「だれか、来る」という言葉へむけて徐々に高まっていく緊張感が、突然の暗転でくぎられる半終止の連続。とくに前半はこの擬似的な反復がパッサカリアのようなリズムをつくっている。そう、これは音響と照明とセリフによってきざまれるリズムの劇なのである。それがしだいにながいセクションへと移行していき、ついにラストシーンの音響と照明の暴力的な飽和へとむかう。死の恐怖にも似た極限の不安を感じたことがあるものなら知っている、あたまのなかを埋めつくすような破壊的な鳴りやまないノイズの混沌。美しく計算された構成のみごとさに舌をまくほかない。
もうひとつの要素として、俳優たちの視線がつくりだす空間劇としての側面があげられる。会場であるSCOOLはほとんど正方形にちかいちいさなスペースだが、その入口からいちばんはなれたコーナーのわずか三畳から四畳程度のちいさな三角形の部分がアクティングエリアになっている。そこに置かれているのはギリギリふたりがならんで座れる程度のソファと、ときおり置かれる折りたたみテーブルのみ。これだけ狭いアクティングエリアにもかかわらず、三人の俳優たちはいくどかの例外(その瞬間が重要な意味を持つわけだが)をのぞいてほとんど目を合わせることがない。会話の場面のほとんどにおいて、ふたりの俳優は平行にならんで視線を客席へむけている。小津安二郎的な風景(思いえがくもの)の共有というよりも、濱口竜介的な非共有のそれにちかい。直接的にはもちろん、客席上でもけっしてまじわることのない視線のかもしだす拒絶感。
そして「彼」と「彼女」が会話している場面を、本来その場にはいない「男」が、アクティングエリアサイドの暗闇からじっと見ている視線もまた印象的だ。見られるもの、見ているもの、そしてそれを見せられる観客という視線の三角形がかたちづくられる。(そのトライアングルをつくるために舞台と客席はこの配置なのだろう)それは能におけるシテとワキと観客のそれに似る。ただし能の場合はワキが見る視線によってシテという亡霊が召喚されるのにたいして、この舞台では見られるものの視線によって見ているものが召喚されるという逆転がおきている。その暗闇から見ている(ように見える)ものこそが、やはり亡霊的な存在にほかならない。じつは今回の佐々木演出を独自のものにしているのは、この「男」の位置づけだろう。戯曲を読めば「男」は三人の登場人物のなかでもっとも俗であり枷のないリアルな存在に感じられる。それがこの上演においては、もっとも表情がとぼしく俗的なものをやや剥ぎとられた存在になっている。それはきわめて亡霊的なものであり、まるで舞台となる古い家の記憶そのもののようだ。そうだとするとこれは罪の意識におそわれるもの、その罪を罰せんとするもの、そして召喚されたものという、いわばホラー的な「復讐劇」にも見えてくる。
豪華な俳優陣のおそろしい演技も特筆もの。飴屋法水の「彼」はその全身からかもしだされる不安定さ、文字どおり「しぼりだす」ような声の生々しさが圧倒的。ラストがちかづくにつれて、倒れてしまうのではないかというほど飴屋の身体が萎れていく。伊東沙保演じる「彼女」はなんといってもそのセリフ。ほとんど一定のゆったりとしたテンポをキープしながら、わずかに音程と発音される深さを変化させるだけで垣間見せる表情。そしてただまっすぐ立っているだけで入れ物になる、能役者のようなその姿。「男」を演じる矢野昌幸は、人間性のはがれおちたミニマムな顔に浮びあがる不気味さに脱帽。矢野はなぜか会場案内と前説と舞台転換も兼ねるが、この上演における立ち位置を考えたらそれも納得か。
俳優はもちろん、照明、音響、衣装にいたるまできわめて素敵なセンスでつくられた、このうえなく切実な時間。二時間半をまったく長いと感じさせない密度であった。観るものにもこのうえない集中力をもとめられるが、演じるほうの精神的・身体的負担はいかばかりかと思われた。
