黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『ヴォイツェック』(東京芸術劇場プレイハウス)

 

ビューヒナーという作家もその作品も知らずに『ヴォイツェック』という戯曲を読んだら、それが一八三六年に書かれたものだとはだれひとり信じないだろう。その詳細な精神疾患の描写、いっけんつながりを欠いたような断片的な(もちろんこれは未完成の遺構であるゆえだが)シーン、動機の明確な裏づけのない行動をする登場人物たちなど、まるで20世紀の実験的な演劇のようだと思うにちがいない。だがこの衝撃的な戯曲が早世の天才の手によって生みだされたのは、彼が敬愛する文豪ゲーテがこの世を去ってからわずか数年しかたっていない時代だった。

未完であるがゆえにさまざまな上演版が存在するが、今回の上演はジャック・ソーン版による上演。まず舞台は一九八一年のベルリンに読み替えられている。言うまでもなく東西にわかれている時代のベルリンであり、ヴォイツェックは治安維持のために派遣されているイギリス軍のアイルランド系軍人という設定。ここまでならよくある読み替え演出だが、そもそもビューヒナーの書いたセリフがどこに残っているのか探すことのほうが不可能なほど、あらたに書かれた膨大なセリフとシーンによって埋めつくされている。いわばこれはビューヒナーの『ヴォイツェック』の世界をかりて、ソーンがあたらしく二次創作した完全に別の作品だ。

おもしろい視点がいくつか導入されていて、壁というものがひとつのキーワードになっている。ベルリンを分断する壁もそうだし、言葉の壁(ヴォイツェックはドイツ語をあまり理解できないという設定)でもあり、理解しあえない他者との壁でもある。いまなお現代的なテーマになっており、それが示唆するところはすくなくない。小川絵梨子の演出も、舞台上にほとんどつねに存在する二枚の壁(そこにはマジックミラーになっている鏡が仕込まれている)をつかった効果的なものだ。

たいへん残念なのは、ヴォイツェックの精神疾患や殺人、自殺にいたる行動のもとにあるのが、母親とのねじれた関係とそのトラウマにあると明示していることである。ソーン版が初演された二〇一七年の時点においてさえずいぶん時代遅れな道具立てのように思われるが、いまとなってはなおさらだろう。ヴォイツェックやマリーら登場人物の解像度があがり詳細にその内面があきらかになればなるほど、不思議なほどその役が平板になっていく。饒舌であればあるほど、作品のもっていた普遍性が乏しくなるのだ。ソーン版の埋めがたい残念な部分はそこである。ビューヒナーのオリジナルでは、行動を突きうごかす内面が語られない空虚さこそが現代的であったのに。一八三〇年代にきわめてあたらしかった戯曲が、二〇一七年にリライトされて時代遅れになってしまうおそろしさ。

だがそんな台本の欠点を補っているのが、俳優陣の健闘である。ヴォイツェック役の森田剛とマリー役の伊原六花はしりあがりによくなり、とくに大詰のクライマックスでは息をのむ熱演。また冨家ノリマサ演じる大尉、栗原英雄の医者は、ベテランらしい存在感とセリフのたしかな技術がみごと。その内面をのぞかせないような突き放した冷たさもよい。

 

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